「デマ」が「デマ(嘘)」だと分かっても、拡散した人たちが訂正しないのはなぜなのか?
というのをわかってない人たちが多いんじゃないかなぁと思う。
でもって、「デマの火消し」でやりたいことって、
「デマ」ですよっていう告知でなくて、それ以上のことをしようとしてないか?ってことですね。
たとえば、一部否定や部分否定をつかった、全否定をしたいんじゃないかなぁ?ってこと。
これって、「デマ」を拡散する人たちと、精神構造は似たようなものですよね。
部分肯定を利用して、全肯定をしようとするのに似てると思う。
デマといえない時は、悪評だと言い換えるとよい
悪評の拡散をしないでみたいな。でも、デマだと拡散することは愚かなことなんだけど、
悪評の場合は、その内容が嘘でないかぎりは、愚かだとは言えない点が違うと思う。
悪評の中に嘘が少しでも混ざっていたら、デマだというレッテルをはることができる。
でも、悪評の中に少しの真実が混ざってたら?
デマだということもできるし、一部は「真実」が混ざっているということがいえると思う。
これが思想的なものが含まれていると、その見分けが難しいと思う。
嘘だけど、さもありそうな話っていうのは、そういうたぐいだと思う。
今回は嘘だけど、いつ事実になるかわからないとか、
今回は嘘だったけど、似たような事実は過去にあったとかの場合は
扱いが、難しいんじゃないかなぁ。
出来ることは、「今回の話は嘘です」という部分だけですよね。
・いつ事実になるかわからない
・似たような事実が過去にあった
というのは否定できないと思うが・・。
いろいろ
・デマの火消しにはデマ拡散の何倍ものコストが必要 - Togetter思想の拡散の場合は、自身の思想と合わないものは拡散しないよね。
つまり、デマを拡散した人たちは、訂正の拡散をしないってことですよ。
訂正の拡散もされるはずだけど、それを読む人は、デマを読んだ人には届かないと。
だって、思想的に違うんだから、同じコミュニティーに属することはマレだから。
でもって、デマの訂正をしたいのでなくて、思想の訂正をしないのなら、それは無理だと思うけどなぁ。
政府がデマだといえばデマとなる?!
そうならない自由さが、逆に、安全?自由?を担保してるといえると思う。つまりさぁ、都合よく、デマというレッテルをはって、デマを排除できるのは、ある意味危険だよ。
でもって、デマかどうかの判断は、各個人にかなりの部分を任せられているものだと思う。
馬鹿(愚民)には判断させないとか言う話になると、それは民衆の力を否定していることになると思うよ。
世の中、いろんなテクニックがあるから
「嘘のようなもの」を本当のように、ミスリードさせる手法だって、たいがいダメだよね。読解力がないっていうことになってる場合も多いけど・・。
そういう手法で、論文というエビデンス(結果)を利用して、理解力のなさを利用する手法も使えるよね。
実際使われてるし・・。
明らかに嘘というものには、危険性がすくないと思う
でもって、そういう嘘は、簡単に嘘だと指摘でいるというのもあるとは思う。まあ、明らかな嘘が、多数派によって肯定されたら、それは危険だけど、でも、もうその時点で、嘘は真実にすり替わってると思う。
明らかな嘘というのには、
・人権が大事にされる社会は、豊かな社会です
・生活保護が充実している社会は、豊かな社会です
みたいなものも含まれると思う。
実際には、そんな豊かな社会ってこの世界のどこにも存在しないし、かつ社会コストかかりすぎて明らかに無理でしょう。
でも、人権大事、生活保護の充実大事とかは、真実になってた時期があると思う。今は、崩壊しつつあると思うけどね。
人権大事、生活保護の充実大事というのは、僕は真実だと思うけど、
でも、「豊かな社会です」と過去から?結び付けてきたという背景があるのも忘れてはいけないと思う。
こういうのって、簡単に否定(肯定)できにくい系統だと思うけど、
でも、思想が皮むと、簡単に否定(肯定)する人たちがでてくるわけ。
デマも危険だけど、同じような危険性をそういう「簡単に否定(肯定)する人たち」にもあると思うよ。
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