ちょっと前から思うのは、インテリであることは周りの賛同、多数派の賛同を得るのには弱いのではないか?っていう点があります。
インテリの武器とヤンキーの武器
インテリの武器は、正しさと潔白とかの場合が多い。ヤンキーの武器は、情である場合が多い。
「理性」と「感情」とかいって、「理性」が素晴らしいことになってるが、実際には「理性」さえも実は「感情」だっていうことを忘れている人たちが多いと思う。人は心を動かすのは、やっぱり「感情」なんでしょうね。スピーチが大事なのは、「感情」を動かすことで、人をひきつけ人を動かす能力があるからだと思う。
「建前」「本音」というのもあるが、「建前」で身を飾れても、「建前」すぎたらもう「本音」よりも醜悪なものになりかねないと思う。まあ、「本音」も本音すぎたら醜悪になるが、本音があると親しみがでる、共感がでるというものもあるでしょう。
ただし、インテリの人は感情でモノを考えない訓練をしている傾向にあるので、そういう普通の感性に弱い部分があると思う。思想や理念を「感情」とか「情」とかいうものと勘違いしている傾向にあると思う。
インテリの弱点は、ヤンキーの弱点にはならないことが多いと思う。ある意味、ヤンキーは論理的である必要もなく、また正しくある必要もなく、また潔白である必要もないのだから。
しかし、実際には、ヤンキーであっても、論理はあるし、正しさもあるし、潔白さもある。ただ、その氷菓の物差しが根本的に違うっていう話はあると思う。インテリ連中は周りを論理的でないとか、狂気だとかいうけど、実際は、違う論理体系があるという部分があると思うんですね。
理性という名の狂気
これが正しい選択だと決めつけてるのは、狂気ではないか?という話ですね。選択肢があり、選択肢が与えられているのに、一方しか選んではいけないとする態度は、もう狂気の何物でもないような。でもって、実際には、他方の選択だって悪くない場合があるでしょう。本当の中立について
最終判断を聞き手(読み手)に任せるという部分がないものは、中立だとはいえないと思う。正しさをつもりが、逆に中立性を失っている事例は多々あると思う。でもって、その行為が、かえって「正しさ」の力を奪っていると思う。本当に正しければ、そんなに強く主張する必要がないんですね。自由に意見を言ってくださいという会議について
自由にいえる雰囲気がないところで、自由に意見を言う人たちはいない。調査にしても、自由に意見をいっても大丈夫という環境でないと、偏るのは当然のことだと思う。インテリの頭の固さは、老害と紙一重
柔軟さがないインテリは、老害と紙一重だと思うんですね。インテリって、思想などに溺れがちなのでどうしても、それが制約みたいな感じで機能することがあろうと思う。でも見方を変えれば、頭が固くて、時代の流れについてこれなくてみたいな老害と見分けがつかない状態だと、老害といえると思う。これは、民主主義ではない
まあ、手段が民主主義でも、実態は民主主義でないケースもあるけど、でも結果が気に入らないからといって、民主主義でないという論理はダメな気がする。民主主義とは、愚かな選択であっても、民衆が責任をもってそれを選択したという部分にあると思う。だって結果責任をおうのは、民衆なんだし、無責任に選んだとは言えないでしょう。指導者がこれが正しいといって勝手に決めたら、民衆が責任をもって選択したとはいえないとは思う。
あと、愚かな選択であっても、またその選択を今後変更できる可能性があるのも、民主主義なんじゃないかなぁと思う。
常に正しい選択ができるというのは、民主主義ではありえないと思う。
スポンサーリンク
コメントを残す