自分の(デザイナーとしての)内心の声を聞くことができず、説明された「展開力」なんていう言葉を信じてしまうようでは、デザイナーたちの良心というものを信用できないのである。
専門家は、民衆の声を聞くべきだ。そしてまた、自分の心の声を聞くべきだ。「あの原案はあまりにも凡庸だ」と、自分の心の声が訴えているはずだ。
五輪エンブレムをめぐるホッテントリについて
・デザイナーの『ごまかし』 本当に「五輪とリエージュのロゴは似てない」か? - ツイナビ | ツイッター(Twitter)ガイド
誠意があるというか、判断材料は示すが、判断自体は決定権のある人たちにお任せしますっていう態度でない人たちの話は、気を付けたほうがよいと思う
・医者?
・科学者?
・エンジニア
・デザイナー
・弁護士
・政治家
・官僚
・教師
日常生活でである、専門家とかそれに類する人たちを思い浮かべてみたらよくわかるんじゃないかなぁと思う。
悪徳な人もいるからとかそういう単純な話でなくて、誠意あるかどうかなんですね。
正しい知識を提供したいという話と
正しいと思われる結論に誘導したいという話とでは
全然違うということです。
正しいと思われる結論に誘導したいというのは、説明でなくて説得。
・理解したらそういう結論に話にならないとか
・勉強したらそういう結論にならないとか
そういう思いが強すぎる人たちの話は、距離を置いて判断したほうがよいと思う
おかしいと思ったことは、やっぱりどこかおかしいことがあるわけで・・
それをうまく言語化でできないからといって、おかしなことは存在しなかったという話にはならない。また、専門家と素人とでは決定的な違いがあります。
専門家は、同じ専門家を騙すのは難しくても、素人をけむに巻くのは難しくないのです。
でもって、同業者を売る人たちがいない世界では、素人をけむに巻くのはすごく簡単なことなのです。
それは、どの業界でも見られる現象です。
専門家と同じ意見なら、正しい理解ができているのか?
そんなことはないと思うけど。つまり、正しい理解を目的としている人たちは、賛美関係なく、間違った理解に対して正そうとするけど
そうでない人たちは、反対派?の間違った理解だけを問題として正そうとする。
また、現状を容認する意見ばかりいっている人たちの話も、正しい理解でなくて、現状を維持するためという目的があるかもしれないという部分はあるかと思う。
簡単な話で、目の前に何か問題が起こっていて騒ぎになっているんだけど、でもその問題は自分たち側には一切問題がないっていうスタンスというのは、問題解決という話ではないわけだから。
この手の現象は、このブログを書き始めてから、ニュースとかで何回も見かけている現象のような気がする。
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