微妙な研究室の教授の付き合い方

・卒業するためには、教授には期待できない
・卒業するためには、教授の意向には逆らえない
・卒業するためには、自身の行動を変えるしかない

ハッキリ言うと、卒業したいだけの人は、研究室選びの時は、教授がアバウトで融通が利くかどうかを気にしたほうが良い。

研究に取り込む精神論 >>>> 研究室にいる学生の人生や人格

正しいかどうかは別にして、「研究室にいる学生の人生や人格」を軽視する原理主義者がいるってことです。
もちろん価値観が違えば、妥協を許さない素晴らしい教授って話はあると思うけど。


この手の話って、どこか「理不尽」さがあるような。でもって、対処方法は、理不尽さを乗り切る一般論が有効だとは思う。人間関係の理不尽さと似てると思う。



卒論は、
・努力
・結果
のどちらかを示せないと無理というのはその通りだと思う。

理不尽さにもいろいろあって、
・努力してるが、最低限の結果しか出せてない =>卒業できる
・努力してないが、最低限の結果を出せてる =>卒業できない
そういうこともある

最低限の結果を出してる場合に、融通が利く教授なら最低ランクの評価を付けても、卒業はさせてくれること多いような・・。

・・・

研究室の教授との付き合い方を変えてうまくいった話。教授を共同研究者に引きずり込む。 - かやのみ日記帳

生きる目的も人生の目標も無い私は、学年トップの成績がなければ配属競争に負けるという噂があった研究室の名前を配属希望書に書いて提出した。
単なる見栄だ。自分が他人より優れているということを証明したかった。
いま思うとこれが人生最大の過ちだったと思う。
もちろんその研究室の専攻分野に興味を持っていたのは確かだった。しかし、大まかな動機は上にあったソレだ。
ここの研究室の人たちは皆優秀だった。噂通りだった。


旧帝の理系学生は院に行く、というよくわからないしきたりに流されて、大学院に行った。
これも間違いだった。糞製造機と成り果てた自分はもはや研究に熱意もなく、ただただやらなければならないことをこなすだけだった。
面白くもなく、楽しくもない。
生きる目的とは

私は、卒業研究や修士研究で得た経験が今後の人生においていくばくかの役に立つと信じているので、卒業研究や修士研究を真剣にかつ楽しく行って欲しいと思っている。でも、一方で、卒業研究や修士研究は長い人生において、何回か登場するちょっとした進級試験でしかないことも理解している。だから、はっきりいって卒業研究や修士研究で自分の心や体を壊すなんていうのはあまりにももったいないと思う。

博士研究は別として、卒業研究と修士研究は成果ではなく努力を評価の対象としている。
卒業研究・修士研究時の悪循環を防ごう - 発声練習





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