言語化しないで考える癖をつけると思考が深まる

いろいろ
優しい気持ちの源泉になるような絶対的なものが欲しいのかもしれない。どんな人にも、合理性や利己的な事情を抜きにして心底から優しくなることの根拠が欲しいのだとおもう。人によっては、恋人とか子どもとかがその根拠となりうるのかもしれないが、私の場合は外にそういう存在を求めても仕方がないようだ。
http://anond.hatelabo.jp/20130310220005
「優しい気持ちの源泉になるような絶対的なもの」は、僕は存在しないと考えている。しかし、人に対して「優しい気持ち」を持っていたいと願っている。

僕の場合は、その願いが祈りであって、それが根拠です。

言語化しないで考える癖をつける

個人差や性格、価値観などによって違うと思いますが、理屈を求めている人たちは、決して理屈では納得しない傾向にあります。多くの場合、理屈というのは言語化されたものであって、ひたすら言語化された思考によって、何かを導き出そうとします。

偉人の場合は別だと思いますが、凡人の場合、大抵はその路線は失敗します。理由の一つは、言語化することによる限界なんですね。言語化すると、現状の思考を超えることはなかなか難しいんです。

言語化するためには、その元となる土壌(思想など)が必要なんだけど、それが毎回同じなので、言語化すると結局大差ないものしか出てこないわけです。要は、言い回しだけが変ってるだけの状態で、あるところをぐるぐる回って迷走した状態になります。

それを打破する方法が、言語化しないでフィーリングで感じてみることなんです。



言語化しない人の強さ

要は、あまり教養のない人たちという文類になるかもしれないが、そういう人の何気ない一言は、理屈をこねまわす人たちよりも、多くの人の心を動かしたり、感銘を与えたりすることから考えても、その強さがわかるでしょう。

納得というのを誤解している

論理矛盾を抱えていても、納得できるというケースがあるということ。特に生き方論やそれに類することは、論理的な矛盾を抱えないということは逆にありえない。

言語化しない思考なんてあるの?

勉強や学問などをしていて、ある概念を理解しようとするときを考えてみればわかるかと思う。分かったと感じる時に、何らかの壁を越えたような錯覚を抱かないでしょうか?

概念などは、言語化されていてもそれを読み理解する程度では習得できないものであるのはわかるかと思います。その1線をこえて理解できたのは、言語で論理を理解する能力でしょうか?

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