各地の図書館が、市民から善意で寄せられる「寄贈本」の対応に苦慮している。すでに所蔵しているものと重なったり、古い学術書などは研究が進んで内容が大きく変化したりと、図書館にとって活用しにくいものが多く、実際に棚に並べられるのは1、2割程度。専門家は「寄贈前に図書館にとって必要か考えてほしい」と訴えている。(横山由紀子)
善意の寄贈本に苦慮する図書館 使えるのは1~2割「何が必要か考えて」 (1/3ページ) - SankeiBiz(サンケイビズ)
都合の良い善意は、よくて
都合の悪い善意は、NGみたいな
身勝手な発想というのは、
善意を押し付ける人たちとなにも変わらないってことに
気づいてないんじゃないかなぁ?と思う。
都合の悪い善意は、「悪意」に仕立て上げるのもよくないと思う。
必要ないものを押し付けるとか、ゴミを押し付けるとか・・・。
じゃぁ、都合のよい善意の人が押し付けた本というのは、必要な本をわざわざ手放しているのか?、手放した後に再度買いなおすほど必要な本だったのか?といえば、違うと思う。
でも、この手の発想って、今の日本じゃ普通っぽいので
ちょっと、ダメすぎるんじゃないかなぁと思う。
でもって、この記事読んで、
そういう身勝手な善意の人がいるからとか、ゴミを平気で押し付けるとか
バッシングみたいなこと書いてたりする感じだけど、
じゃぁ、電車中で席の一つも譲ったことあるのか?って感じなんだけど。
僕が思うのは、、
善意を問いかけるのではなくて
希望を素直に示せばよいだけの話だと思う。
基準や指針を示さないで、
察しろとかいわれても、無理なこともあろうかと思う。
その証拠に、図書館ではいらない本を、リサイクル本としておいたら、即日でなくなったりするのは
その本はゴミで無くて、何らかの価値があるということなのだから。
で、図書館の受け入れ基準が、一般人が思うよりも厳しいものかもしれないということを示唆しているのかもしれないし・・。
実際には、即日で根こそぎ持っていって、Amazonマーケットプレイスあたりで売られてたりしたら怖いなという感じがするが・・・。
偽善批判に関しても・・・
渋谷だけじゃない。W杯の会場でゴミを拾っていた人たちもそうだ。
ゴミを拾って、それでどうするのか。ゴミ箱に捨てる? その先は? そこから焼却などの処分をするのも大変だというのが分かっていない人ばかりだ。
だいたい、同じ場所に大量のゴミが集まっているならば、清掃員たちにも大して手間がかからないだろう。そんなゴミを拾ったところで大して役にも立っていない。
「目立つ場所で”善行”をして誉められたい」という偽善が透けて見える。
聖書にも主イエス・キリストの言葉として「人に見てもらおうとして、人の前で善行をしないように」とある。
本当の善行というのは、表通りにたくさんあるゴミを拾うことではなく、裏通りなどの目立たないところにひっそり捨てられたゴミを誰にも知られず拾い集めることで収集人の負担を軽くすることを言うのだ。
渋谷でゴミ拾ってた人たちは偽善者
「どうせ、道に大量にゴミ?が捨てられてるんだから、この程度捨ててもいいだろう?という思考」と
「だいたい、同じ場所に大量のゴミが集まっているならば、清掃員たちにも大して手間がかからないだろう」と
言う思想とでは、結局同じだと思う。
つまりですね、身勝手な論理だということです。
前者は、自らゴミを捨てる行為にかんしての身勝手な論理で、
後者は、ゴミを拾うことに意味がないという身勝手な論理なんです。
身勝手さというのは、それが事実かどうかとは別に存在するものです。
偽善と同じですね。
たいして役に立たなくても、ゴミは拾って、近くのゴミ箱に入れるのは、悪い行為ではないとは思う。
キリスト教とかの場合、善行をつむと天国にいけるというメリットがあるような気がするので、無償で何かしていると言い切れない人たちもいると思うけど、でもそんなの偽善とか言いだしても仕方がないと思う。
「やらない善行より、やる偽善」とか、僕は、そんな単純には思えないけど・・・。
・「やらない善よりやる偽善」は詭弁 - わかんさんのブログ
この手の論理も、都合よく利用して、なんかよろしくないことをしている人たちもいたりするようなので・・。
ぼくが思うのは
たいして害がない行為、たいして影響力のない行為に関して、
それが一般の価値観で、「善行」と言われている行為に近ければ、偽善とか言ってあれこれ言う必要がないのではないか?と思う。
恋愛でも、純愛以外は愛として認められないってことはないんだから。
偽善を必要以上に指摘する人は、純愛以外を愛とは認めないという路線だけなんだろ思う。
でも、世の中には純愛以外の愛もあふれていて、それも愛なんだとは思うんだけどね。
偽善批判は、善意ある人たちを委縮させてしまう
善意は、もともと「押し付け」という性質があると思う。で、押し付けられる側が、
それをありがたいとおもえんば、そう感じないし
迷惑だと感じれば、押し付け感を感じるものだと思う。
そもそも、善意というのは、相手や周りのことを考えて自発的に行う行為であって、
正式に依頼をうけて行う行為では、あまりないからというものがあろうかと思う。
偽善批判をすると、自意識が過剰になり、
ささいな押し付けも気になるようになって、結果として、善意ある人たちは委縮してしまうと思う。
目立つところで、ゴミひろいをするのは、偽善者なのか?
本当の善行というのは、表通りにたくさんあるゴミを拾うことではなく、裏通りなどの目立たないところにひっそり捨てられたゴミを誰にも知られず拾い集めることで収集人の負担を軽くすることを言うのだ。
渋谷でゴミ拾ってた人たちは偽善者
単に表通りを歩いていたら、ゴミがあったので拾いましたと言うだけの話では?
裏通りを歩いていたら、ゴミがあったので拾いましたというのと変わらないと思う。
美観を保つためにひろうという善意もあるので、
別に、収集人の負担を軽くするための善意ではないのかもしれないのだし・・・。
で、ちょっと目の付け所が違いますよっていう感じの人が、
収集人の負担を軽くするためにやっているんだろうけど、
追加料金のボーナス(臨時収入)がなくなる行為なので、その手のイベントで散財したゴミを拾う行為は、
ゴミ収集人のささやかな楽しみ(ボーナス)を奪いかねないから、ダメな行為だと言いだす人がいるかもしれないかと思う。
まあ、実際、現在そんな臨時収入があるのかどうかしらないけど、実際あるかどうかは問題で無くて
そういう考え方があるというのが重要。
しかし、「美観を維持するという意味での善意」は、結果として、ゴミ収集人の臨時収入を奪うことになっても、善意なのです。
受け取り手のメリットで判断するのも、どうかな?
会社で、効率悪く仕事をすることが、人員追加ということにつながるのなら、それで雇用された人がいれば、その人からみれば善意に感じる人もいるけど、経営者からみたら巨悪な行為でしょう(汗)会社で効率悪く働く人がいて迷惑だという不満がある一方で
表立って出てこないけど、効率よく働く人たちがいて、逆に迷惑というのが存在する。
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