愛されすぎてダメに育った子のことは、愛情至上主義者には目に入らないんです。
そもそも、ダメに育った子は、愛情に恵まれないということになってるからです。
親として、「お前はだめだ」と烙印を押して子どもの人生の邪魔をしないように大体、子供っていうのは、大人の嘘、それも親の嘘にはかなり敏感で、それていてかなり傷つきやすいというのを忘れてるなと思う。
精一杯応援して、かわいがって育てていきたい。
そうすれば、自分のなかの残念な部分をみつけたとしても、それを乗り越える力を備えた自分がいることに気づけるはずだ、と信じている。
自分のなかの残念な部分に気づく、その時までに
ケースバイケースで、何とでも話は成立するので難しいけどね。
不細工だとかドンくさいとか言われて育ったので、こうなってしまったろ言う話は納得されやすいけど、実際にはその逆だってあるんですね。かわいいとか言われて育てられたので、周りが思うほどひどいことに気づけなかったとかいうパターンですね。
もし気づけていたら、もっと対策の練りようがあったのにという論理です。
たいていの人は、うまくいかなかったと思う原因を見つけ出して、それを取り除けばうまくいくだろうと考えがちなんだけど、そうでないこともおおいということ。
何かうまくいかなければ、誰かのせいにしてしまいがちな性格の人は、それが事実でも、「生きていく力」がもともと弱いわけですね。
たしかに、自身を肯定できて、自身を愛することができる人は、一般には「生きる力」が強い傾向にあるわけですが、でも誰かのせいにして、自力で何かを切り開けないのなら、結局は、自愛におぼれて不幸になるだけのことも多々あります。
不細工なのに、かわいいと育てられたとしても、同じ結果が出るわけじゃないのは明らか。
ある人は、幸福になりある人は不幸になるでしょう。
幸福な人はその論理(行動)を肯定し、不幸な人はその論理(行動)を否定するだけです。
なんでも、ほどほどにしたほうがよいとおもうけどなぁ
子供をオーバー目に褒めるのは教育効果があるのは確かだけど、度を越してしまったら逆効果なのは明らかでしょう。あと、親と子供は別人格だから、親が子供時代にこうだったので、同じ轍を踏まないでほしいとおもって育てるのは親の愛としては普通だけど、でも、それが逆効果になることも多々あるのは、多くの人が経験済みなことでしょう。
いいところだけ見てれば、いいのか?
小学校の懇談会でも「休み時間には真っ先にお外に飛び出していきますよ」と先生に教えてもらった。でも勉強はできませんとかだと、それはそれで苦労しそうだけど。別に勉強というのは例であって・・・・。
自分のなかの残念な部分に気づく、その時までに
親バカは悪くないとは思う
でも、演技している親バカや、計算ずくの親バカは、たぶん、単なる「親バカ」よりもかなり害がある場合が多いと思う。バカと天才は紙一重というのには、なんとなくそう思えても
毒親?と良親?は、紙一重というのは、納得しがたいんじゃないかな?と思う。
だいたいさぁ、大人がいう「良い子」というのは問題が多い傾向にあるのに、なぜ、大人が思う「良い親」というのはそう思わないのか、逆に不思議。
自分のなかの残念な部分に気づく
コンプレックスのことですよね。コンプレックスの内容が、事実だとかそうでないとかいうのは、あまり関係ないとおもうけどね。
乗り越える力を備えた自分がいることに気づけるはず
親が、親になった時点でも、乗り越えられていない場合は、どうなるの?というのは?わが子には、こうしたいという思いは、感情のバランスからずれたところにあるわけで、それはコンプレックスとかそういう部分から出てるところも多々あるんじゃないかな?と思う。
親と同じ苦労はさせたくないというのも、似たようなものでしょう?
でも、(ある程度)苦労させないと人間的にはダメになってしまうパターンも容易に観測できますよね?
単純な原理を採用するのは辞めたほうがよいと思う
植物だって、水や肥料の与え方は難しいんだから。でも、植物の種類によっては、適当でもぜんぜん平気な場合もある。
人間と植物とは同じではないが、
子供にだって個性や特性があるのだから、その特性や個性を無視した一般論が通用するとはとても思えないんだけど。
水は大目に与えたほうがよいというのが成り立つ場合と成り立たない場合があるのと同じだと思う。
主義主張や理想におぼれないで、目の前のわが子を見るべきでは?と思う。
植物を育てるのにも、愛があれば自然とできる人もいるけど、愛があってもできない人もいるし、愛がないのに上手に育てられる人もいる。
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