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なぜ、他者への攻撃性という、オタク趣味とは良くも悪くもまったく関係のない属性を根拠に「『ほんとう』はアニメ/ゲーム/漫画/ラノベetcなんて、好きじゃないんだろう?」と下衆の勘繰りをしてまで、「ほんとうのオタク」と「仮面オタク」*3の二分法を設定しなければならなかったのか。本当の「 」ならという論調は、たいていはスルーしてもよいか、その言葉の表面以外のところに本意があることが多いと思う。たぶん、これは多くの人が無意識・無自覚にやってると思うので、そういう人たちを逆に責めても仕方がないと思う。
分からない。
「ほんとう」の暴力性 - 高度に発達した気遣いは、気違いと区別がつかない
本当の友達、本当の仲間
こういうものを例と考えてみれば明確だと思う。そういう言葉というか言葉の響きが大好きな人がいますが、
それは、単なる信念であって、本当とか嘘とかとはあまり関係ないことが多いんですね。
たとえば、以下のようなことは両方成り立つわけです。
・本当の友達だったら、金を貸せるはず
・本当の友達だからこそ、金を貸せない
そういう感じ
そもそも、仲間とか友達とかは、理屈ではない
理屈ではないんですが、こんなの本当の仲間(友達)じゃないなと思ったら、そこで仲間(友達)をやめることは自由なんですね。
そこで、裏切ったなということで
恨みを買うことや、制裁?をうけたりするかもしれないけど、
そんなのは、嘘の仲間(友達)だったという証明ですかね?(汗)。
本当・嘘は、自身も作り出しているものかもしれないということ。
つまり、こういうのは、大義名分の部類かもしれないということ。
都合よく説明するというか、割り切るのには、便利な価値観だということ。
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便利だけど
割り切るのに使うのはよさそうに思うけど、それ以上のことに使うのは、どうかなとは思う。他者を排除するとか、否定するとかに使うのには・・・・
本当に好きなら、本当のファンなら
こういうのも、持論(自論)に都合のよい脚色として使われる程度だと思ったほうがよい。・ホントウのファンなら、こんなことはしないという圧力
・信者は何冊も同じ本を買うが、ファンは中古本を楽しむ
・「K-POPファンよ目を覚ませ」とか気にすることもない
こんなのよく考えればわかるんだけど、偽物の愛情だとか本物の愛情とかそういうのと同じですよ。
都合の悪いものは、偽物の愛情だといえば、イメージづけができるので、その行為のみだけでなくて当事者連中も排除できるという方法論ですな。
論理(理論)で、納得させる、することに依存しすぎなのかも
論理(理論)というのは便利なものですが、そういうのに依存しすぎるのもあまりよくないかもとは思います。また、便利なものはその使い方を間違うとよろしくない結果になるのは、多くの事例が証明しています。「うまく言いました。うまく言い負かしました」系は、逆にいうと子供すぎるのかもしれないと思います。
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