年配者の若者の叩き方
年配者が、「常識」「マナー」「礼儀」関係で叩く場合は、叩く効果としてはかなり効率的だと思います。これ、正論を使った暴力とおなじような感じなんですね。正論がゆえに反論できにくいんだけど、なんか変だなという感じですね。
若者は、「常識」「マナー」「礼儀」で叩かれた場合は、(あまり)気にしてはいけません。
出る杭を叩くのには、「常識」「マナー」「礼儀」で叩くのが一番効率的なんです。
年寄りは、まあ老害みたいなものなので、どうすることも出来ないんだけど、残念なのは若者たちですね。すべての若者がそうだとは言わないけど、妙に物わかりが良くて、こういうことに素直に賛同してしまうところですね。
表面だけ賛同している若者もいるとは思うけど、そういう若者は個人的にはOKだと思う。
もちろん、叩かれるでなくて「注意」とかになる場合もあるかもしれないけど、その区別なんかあまりできないので、どっちでもあまり気にする必要はないと思う。
社会人として・・・
・社会人としてやってはいけないという排斥運動で得するのはだれか? – ただの通りすがりこういうのもありますね。
・人間としてどうなんだろう?
・男(女)としてどうなんだろう?
・社会人としてはどうなんだろう?
いろんなバージョンがあります。
もちろん、指摘は正しいこともあるし、指摘自体は正しくなくても、そこに書かれている内容は一般論としては間違っていない場合もあります。
ただ言えることは、表面(字面)だけでなくて、その全体のイメージやフィーリングみたいなもので考えるべきだと思います。
論理的に考えるというのは、字句解析することではないんですから。その文章に反映されている考えなどを読み取ってそれを分析することです。
学校の先生のいうことは、スルーできるのに・・・
私はできないという人は、まあ、ニュアンスで考えてください。学校の先生のいうことは、聞き流せるのに、社会に出て先生っぽい人になにか指摘されると、スルーできないことが多いのはなぜかなと思います。
スルーしなさいとは言わないけど、気にしないほうが良いことの方が実は多い。
「常識」「マナー」「礼儀」は実は管理手法の一つだったりする
そのような考え方もあるということです。管理するための道具だと思えば、違った対処方法も考えられるかもしれません。
小市民の人にわかりやすく説明すれば、能力があるが常識はあまりない人を排除するのとかそういうのにも使えますとかいうことです。
転職してきた人を排除するとか、新参者を排除するとか・・・。まあ、排除以外にも平伏させるとかにも使えると思うます。
ルールを守らせるという部分に、その道具としての効果があるわけです。
「常識」「マナー」「礼儀」を「社内の内部ルール」と置き換えれば、わかりやすいかもしれません。
それ以外にもいろいろ使えます。
「正論」と同じぐらい便利な道具です。
正しさの鎖に繋がれると、幸せになれない 【正しさの正しくなさ】
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