いじめをする人間が、幸せでヌクヌクしている現実について

小池一夫 氏のツイートから、現代社会の闇を感じた一幕 - Togetterまとめ
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僕が思うのは、「いじめをする人間は最低だ」というのに、色付けをすると変なことになるんじゃないかなぁと思う。
人間最低だけど、友達多く、幸せで、親からも愛情を十分注がれてる人たちなんて、ゴロゴロいるんじゃないの?

・いじめ
・パワハラ
・セクハラ
・心理的に圧力かける
・金銭的に圧力かける
・権力をかざす
・正論をかざす
・大義をかざす

「あの人育ちが悪いね」というのは、いじめ系にもよく使われる言葉であるのが、何とも言い難いところ。

いじめをする人間が、幸せでヌクヌクしている現実について

社会的制裁を大きく受けない限り、その手の人間って、家族をもち幸せに暮らしてますよっていう現実があろうと思う。でもって、そういう人でも、親として子供に愛情を注いで育ててる人ばかりだと思う。

まず、いじめとかその系統は、心の闇のはけ口やストレス解消以外に、実際そういう手法を使うと、相手の言動を操作することができて便利だということがあります。

ロボットとか奴隷とか召使とかしういう感じですね。

人間関係のパワー合戦で勝てる人は、コスト安く幸せになりやすいっていうのがあるとは思う。

倫理観高い、コンプライアンス高いと、いろいろ制約される

・制約される
・コストかかる

で、そういう路線をとるのは、
・社会的制裁が怖い
・美徳感

あたりだと思う。

育ちが良いと、なぜ「いじめ」をしない傾向にあるのか?

たんに、恵まれているからです。

追い詰めてあげると、いじめとかそういう系統をする人たちに変身するかもしれません。
「デスマーチの現場」とか「ブラック企業の現場」とかを見てみれば、よくわかるかと。

余裕があるときは、善人です。
でも、余裕がなくなったら、善人のふりをするのが精いっぱい。

ここで、いつまで「善人のふり」ができるかですね。
で、「善人のふり」をするのは、美徳感とか当人の何らかのポリシーだと思います。

まあ、善人のふりなんて捨てたほうが身動きできて、自己を守りやすいんだけどね。
で、余力のない人たち、力がない人たちから、早々に「善人のふり」をやめだすと思います。

で、その状況をみて、育ちが悪いんだといえるかどうかといえば、
育ちが悪いというより、弱者だからという部分もあろうと思います。

いじめとモラル感とかにすればいいかとそういうのに置き換えればいいかと思います。

もちろん、余力があろうと、「善人のふり」さえしない人たちもいますが、そういうのは人間の屑でしょう。
育ちがわるいとかそういう論路を超えてる人たちなんです。

どんなに親の愛情を注がれても、どんなに恵まれていても、なぜかそういうことをする人たちがいるわけです。
だから「人間の屑」なんですね。

グッピー理論

育ちの良い人だけを集めても、なぜか「いじめ」が発生するというのはあるとは思う。

社会構造、社会システム、人間関係によるものなんじゃないかなぁと思う。
つまり、個々の問題というよりかは、集合体の問題なのかもしれないなぁとは思う。

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『いじめをする人間が、幸せでヌクヌクしている現実について』へのコメント

  1. 名前:匿名 : 投稿日:2016/02/12 15:39

    先月あたりからあなたのブログの記事を色々読ませて頂き、
    人間社会の本質を突いた指摘の数々に感心するばかりです。

    「道徳は主観や政治的都合に左右されるもので、弱者にとって信頼できる指標ではない」
    「人間は本質的に感情的かつ利己的な存在であり、正論で説得しようとするのは間違いである」
    「社会は本来的に不平等で弱者にとって過酷なものであり、公平性を期待すべきものではない」

    ぐうの音も出ない正論で、すぐメディアの綺麗事に流される私の家族に読ませたくなります。
    他人の都合に安易に流されるよりも、自分達が賢く立ち回り利益を得ることを考えるべきだと
    ことあるごとに私は主張しているのですが、彼らは全く意に介しません。

    私は善悪や道徳といったものは単に個人や組織にとっての「都合」であり、
    この世に悪いことは良いことといったものは存在しない、
    動物にとって生きることが弱肉強食の競争でしかないように、
    「善悪」など社会を回すための「システム」「道具」だと思っています。
    そもそも人間だけが特別な存在であるわけがないんです。

    そこで、一つ質問があります。

    あなたのブログは基本的に客観的に社会のシステムについて解説されていますが、
    時々「クズ」「ゲス」といった善悪について断定的な表現が見受けられます。

    力関係によって正当化される「正義」と
    正当化されない「クズ」の違いは、どのような点にあるのでしょうか?

  2. 名前:管理人 : 投稿日:2016/02/12 18:40


    >時々「クズ」「ゲス」といった善悪について断定的な表現が見受けられます。

    ・自分より弱い人間を踏みにじってはダメだと思っている
    ・余力があるのなら、自分より弱い人たちを援護してあげるべきだと考えている
    ・そういう人たちは感謝をしてくれることもあるが、平気で裏切ることのほうが多い
    ・自己の利益のために、周り(弱者)を利用するのは微妙

    と僕は考えているようです。

    自分より弱い人間を踏みつける、利用する、騙すみたいなことに関しては、「クズ」「ゲス」だと考えていると思います。


    ・道徳は主観や政治的都合に左右されるもので、弱者にとって信頼できる指標ではない
    ・人間は本質的に感情的かつ利己的な存在であり、正論で説得しようとするのは間違いである
    ・社会は本来的に不平等で弱者にとって過酷なものであり、公平性を期待すべきものではない

    確かにそう考えているのは確かです。



    >すぐメディアの綺麗事に流される私の家族に読ませたくなります。
    >他人の都合に安易に流されるよりも、自分達が賢く立ち回り利益を得ることを考えるべきだと
    >ことあるごとに私は主張しているのですが、彼らは全く意に介しません。

    綺麗ごとに流されているととらえるか
    綺麗ごとを大事にしたいととらえるかは
    主観の部分があるのではないかと思います。

    価値観だと思うので、
    そのことが理解できても、賛同できないという立場はあるかとは思います。

    また、そのような生き方のほうが「お得」「有利」でも、そんな生き方をしたくないて言う部分もあろうとは思います。

    同じものを読んでも、「自身の肯定したい生き方の方向」によって、強化される方向が違うと思います。

    「こういうのを読めば、こういう考えになるはずだ」という思いは、僕の場合はたいてい裏切られましたね。

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