本文の主張→本文の主張を勝手にセリフ調にして要約→「ぼくちんの~」みたいなやつになる
これスゲー嫌い。
悪意丸出しだし、完全に本文書いてるやつを馬鹿にしてるし、ただただ煽りたいだけのコメント。
煽りたいだけのコメントの中でもかなり嫌いな方。
『「ぼくちんの○○は××なんだ~」ってことですね』みたいなコメント、大嫌い
web.archive.org:『「ぼくちんの○○は××なんだ~」ってことですね』みたいなコメント、大嫌い
自身がどちら側に賛同(共感)できるかで、感じ方は変わると思うんですね。
・よく言った
・そんな言い方はひどすぎる
結局そうなってしまうと思う。
たとえば、差別主義者の理路正論とした主張に対して、反論しにくいので、「ぼくちんの~」という手法でコメントを付けた場合において、「そんな言い方はひどい」と思える人はどれだけいるか?っていう部分はあると思う。
相手の論理のほころびを指摘するは悪手だと思う
『「ぼくちんの○○は××なんだ~」ってことですね』みたいなコメント、大嫌い自分が正しいのだとすれば相手の論理のどこかに綻びがあるはずで、それを指摘すれば良いだけだよね。揶揄したい気持ちはわかるけど、悪手だから避けたほうが良い
2017/02/18 00:27
揶揄するのと、相手の論理のほころびを指摘するのは、個人的にはあまり変わらないのかもしれないと思う。
・自身が正しいとしても、自身の論理にどこかほころびがあるかもしれない
そういう可能性のほうが高いよね。
『「ぼくちんの○○は××なんだ~」ってことですね』みたいなコメント、大嫌いあー、わかる。そのうえ的外れだと気持ち悪さが数倍増しになる。余計なお世話だと思いつつも的外れである旨を指摘したら「図星なのねー☆」ってなるので、まぁ最強だよね、あの類。
2017/02/18 00:32
的外れかそうでないかは、価値観による部分に依存してる場合もあるので、図星だと思う人たちも一定数いると思う。
たとえば、昔のはてな村(はてなブックマーク界隈)なら、はてな村の正義では正しくても、世間一般の正義では微妙というのがいろいろあったわけですしね。集団によっては、おかしなことが、常識になってたり正義になってることは多々ある。会社とか職場とかで考えれば、よくわかるはず。
『「ぼくちんの○○は××なんだ~」ってことですね』みたいなコメント、大嫌いはてサ・フェミはこれ好んで使うわりにカウンターされると即発狂するんだよな
2017/02/17 23:39
僕もそう思う
相手の論理のほころびを指摘することは、正しさを示せないかも?!
ストローマン(英: straw man)は、議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す[1]。藁人形論法ともいう。
しばしば、感情に訴える論法やチェリー・ピッキングのような他の誤りとともに用いられる。相手の発言を元の文脈を無視して引用し、本来の意味とは異なる印象を与えるよう提示することをクオート・マイニングと呼ぶが、クオート・マイニングに基づいて批判すればこれもストローマンの一種である。
ストローマン - Wikipedia
正しくない見解がスターを集めてしまっているのでちょっとだけ書く
元増田が問題にしているのは「口調のデフォルメ」である。
これは藁人形論法ではない
web.archive.org:これは藁人形論法ではない
『「ぼくちんの○○は××なんだ~」ってことですね』みたいなコメント、大嫌い相手の意見の一部を誤解してみせたり、正しく引用することなく歪めるとその意見に反論することは容易になる。すると一見すると反論が妥当であるように思われるため、人々を説得する際に有効なテクニック。@wikipedia
2017/02/17 23:32
正しさを示すことよりかは
相手の正しさを貶めることに使うほうが有効に機能すると思う。
『「ぼくちんの○○は××なんだ~」ってことですね』みたいなコメント、大嫌い
- [増田]
- [詭弁]
- [ストローマン]
既に正解が出てるけど、わら人形論法=ストローマン論法とも言われるな。
2017/02/17 22:02
世の中の正しい?側も、結構この手の手法をテクニックとして使ってるような。
自身の正しさを示すのには、方向性を変えてその正しさを別の言葉で示すべきなのかも
口達者でないかぎり、相手しないほうが良い感じだと思う。昔から言われてるけど、相手と同じ土俵で戦ってはダメだという話だと思う。
正しい側は、暴言を吐けないが、
正しくない?側が指摘するときは、暴言を吐けるという
非対称性があると思う。
正しい側は暴言を吐くと、正しさがあろうと、その正しさは曇りだすので、相手の思惑にハマるというオチになってると思う。
世の中には、建前と本音があるので
なぜこの2つが存在するかといえば、本音にも一定の「正義」を認めてるからだと思う。つまり、公言できない正義というものだと思う。公言できない正義を無下に否定すると、おかしなことになるかもしれないなぁと思う。公言できないのをいいことに、建前の正義をゴロ押しする人たちがいるわけですが、微妙だと思う。正しすぎるんだけど、正しすぎるゆえにダメなんじゃないかなぁと思われるのは、このあたりカモと思う。
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