少なくとも、今よりかは、傷つけたり、不快にさせたりする人の人数を減らしていくことは可能ではないでしょうか?
つまり、誰も傷つけずに、不快にさせることもないようにしたいっていう望みが、嘘っぱちなんですよ。
開き直って、何もしません、今まで通りやっていきますみたいな宣言にしかなってないと思うんですね。
で、方法ってあるの?といわれると、あるのかなぁ?とかいう感じだけど・・・。
しかしですね、そうありたいと努力するというのが一つの方法論であって、手法なんですよ。
もちろん、それを実現するまでには、いろいろ試行錯誤し、今まで以上に人を傷つけ、不快にさせることもあるでしょう。しかし、途中で投げ出さないで、いろいろやってみることが大切なんじゃないかなぁと思う。
生まれ持った素質や才能で、そういうことが自然とできる人たちもいれば、努力を重ねてもなかなかできない人たちも当然いるでしょう。
・簡単にできない
・楽してできない
・手法はケースバイケースで、これという方法がない
・「誰も=一人も」というのは現実問題無理
そういうものに対して、「だれも=一人も」部分を強調して、ごり押しする態度は暴力的な部分が垣間見えてると思う。
そうです、その暴力的な部分が、知らず知らずのうちに人を傷つけたり、不快に感じさせたりしているのではないでしょうか?
存在自体が、不快
まあ、そういうのもあるので、無理なことはあろうとは思う。そういうのは相手にできないし、頑張ったところで改善できる可能性は少ないけど、
そこは頑張らなきゃいいだけで、すべてを頑張るのは辞めるのは、ちょっと違うんじゃないの?と思う。
そもそも、今までその観点でかんばったことあるの?って話も重要だと思う。
「誰も傷つけない」で・・・
そういう人、身近にいないんですかね?言葉を選んでいるし、
自身に攻撃を加えられても、即反撃したりなんてしないし
どちらかというと、ちょっと損してるんじゃないの?
とかいう感じの人とかいないんでしょうか?
手本に、よいものを選ぶとか
そもそも、手本になるものを見つけ出すとか
そういうのも、一つの方法論だとは思います。
仮想敵設定するのは、ダメだと思う
その方法論では、当然、反感買うのを覚悟しないとダメなのは事実。だって、賛同できない人たちは敵側になるわけだしね。
なかなか難しいところはあるけど・・・。
スルーするのも、これ以上、傷つけない手法の一つだと思う
こういう不当なことを言ってくる人がいましたみたいなことをあえて言わないのも、これ以上、傷つけないための一つの方法論だと思う。理不尽さをある程度、享受する態度がないと、だれも傷つけないとかは無理筋かなぁとは思います。
「僕(私)は何も悪くない」っていう部分が強すぎるのは、ダメなんじゃないかなぁと思う。
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