1. 父親からDVを受けて育ったブログ主が、自分以上に酷い暴力を受けていた上の兄弟に対して、自分の結婚式に両親と共に出席してくれることを懇願。
2. 当然、兄弟からは当初きっぱり断られるも、「親への感謝を伝えたい、両親を喜ばせたい」と嗚咽する妹を見かねたのか、結局やむなく出席。ピアノ演奏までしてくれた。
3.ブログ主感謝。青空をバックに『やっぱり、結婚式をやってよかった。こんな家族だけど、私は大切に育てられて本当に幸せ』(※しかし、目下自分は夫のモラハラにより家庭内別居中)
「DVやモラハラは被害者の方にも問題がある」
引用先の引用先は実は読んでないので、引用先だけの情報で書きました。
僕個人としては、形で幸せを演出するのは、それも自分以外の人まで巻き込んでするのは、自身も周りも不幸にしかねないかなと思う。
DVもモラハラも範囲が広いし、内容も素人の僕にはわからないが、自分自身の幸せの「形」を周りに暴力的に要求するところがあると思う。まず、形があって、それに一致しないと、それを強制するという感じかな?
「形」というのは、世間一般的に認められているものが多くて、その「形」に従わないのは、もしかして自分のほうが悪いんじゃないかな?と思わせてる部分も、被害者になりかねない部分があるんだろうなぁと思う。
被害者が、加害者と同じことをやってしまうのは、その「形」というものにとらわれやすい傾向にあるからだと思う。それが本当の暴力か?それとも間接的な暴力かの違いだけだと思う。
形で幸せを演出するのにも・・・
まずは、形を選ぶべきだとおもう。結婚式だって、こうでないとダメという形はホントウは無くて、臨機応変に対応できるものなんですね。
親戚が来ない、両親がこない、兄弟(姉妹)がこないとかでも、無理に来させる必要なくて、
幸せな物語を演出するための話を考えればいいだけなんですよ。
所詮は「形」なんでも、逆に演出次第ってことなんですよ。
本当は縁をきってこないのを、違い理由にして、涙を流しながら今まで育ててくれてありがとうと伝えたかったみたいなことをいえば、幸せの演出なんてできるです。
結婚式の話を書いたのは、意外と結婚式って、いろいろ問題が発生するケースが多くて、多くの人が悩む問題であるからで、もしかして考え方として参考になるかなと思う。
あと、(素人まがいでも)プロの司会者を雇ってるのなら、世の中にありがちなケースについては、たいていうまく対応方法を教えてくれたりする・・・。
被害者にも非がある
交通事故でいえば、責任割合は9:1ですみたいな話だと思う。まあ、通常の感覚では本当に納得できないけど、1割は過失有りみたいな・・・。
非があるといっても、改善できる余地があるといってるだけで、
世の中一般的な悪いとか言う意味合いとは別物だとおもう。
しかしですね、改善できる余地があるという部分を認めたほうがよいのに、
被害者にも非があるなんて、何とひどい事を言えるんだという思想にはまりだすと、
逆に不幸になりかねないと思う。
それは、形にとらわれすぎて、本質を見失っているからです。
ただし、被害者にも非がある系の論理を言う人の話をまともに聞かないほうがよい場合も多いけどね。そういうことを言いたいのなら、言葉を選んで、表現も選んでというところがないと、そもそも周りから受け入れ難いのをしっているのに、そういう書き方をしないのは、きっと違う意図があるからだと思う。
幸せになりたいのなら、あまり形にこだわらないほうがよい
たとえば、夫婦はこうでないとダメだとかいう思想だと、夫婦関係は長続きしない。つまりですね、形があるとしても作り出していくものであるのに、まず形をつくってそれに合わせるという方法ととると、うまくいかないケースが多いってだけの話です。
服に合わせて、体型を作るのは、大変だというだけの話。
当人はそれでもイイだろうけど、当人じゃない人が、この服に合うように生活しなさいとかいわれても、困るなってだけの話。
体裁や体面は大事だけど・・・
大人が生きていくうえで、そういうのは大事な面もあるんだけど、ほどほどにしておいたほうがよいよと思う。体裁や体面に一切こだわらないという「形」も実は、不幸になりかねないということも書いておきます。
形ありきの人は、本当の意味で自分の気持ちや周りの気持ちを大切にできない傾向にあるのではないかなぁと思う。
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