飲食店やスーパー、コンビニでお会計をする時の話です。と思ったら、コンビニのレジ対応で、「ありがとうございました」を言わないので横柄だと思っている人もいるってことがわかった。
100人に一人くらいと思いますが、「ありがとうございました」の一言を言わない店員っていますよね。
こんな人に当たると、その買い物自体にけちをつけられたみたいで、その日一日気分が悪いです。
「お前は客相手の仕事に就くな」って言いたくなります。
ありがとうを言わない店員なんて… : 男性から発信するトピ : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
コンビニのレジで店員に、「ありがとうございました」と言わないことを批判するなんて、モンスター客だとかクレーマ気質だとか言い出すムードはさすがにないと思うけど・・・。
ありがとうをいう、ごちそうさまという我々は、素晴らしい?!
ありがとうをいう、ごちそうさまという我々は、素晴らしい、言わない人間は神経を疑うという発言に反論しにくい感じなんだけど、根底に流れる、排他的というか、誰かを批判することで何かを肯定するという姿勢が、根本的にダメな気がする。言いたいからいうと
言いたくないから言わない
とは、本来は、それほど差がないと思うんだけど、
やっぱり、言う人間のほうが上等に思えるという論調もどうかなと思う。
直接そう書いてなくても、そういう意識が見え隠れするのなら、そうだと思う。
それは、当人でないと分からないし、そういう心情をどう考えるかも当人次第だと思う。
ブラック企業の社長でも、社員に働いてくれてありがとうと言ってるらしいよ!
でも、給料には反映されない。言わないより、言うほうがマシとかは、状況によりけり。
コンビニとか、牛丼屋?とか、店員があれこれ干渉してこないのがよかったんでは?
そういう時代もあった気がするけど。そういうニューズがあって、そういうのを満たしてた時代もあったとおもうけど。
コンビニで、「いらっしゃいませ」とうるさく言うようになったのは、防犯に効果があるということでマニュアル化されて指導されたから。
挨拶なんだからしたほうがよいとかいうのも、机上の空論であって、そういうのがうっとおしいと思っている人たちも過去には確実にいたわけです。まあ、今現在もいるとはおもうけど…。
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コメント一覧
名前:けん :
買えたらいいじゃんって思ったw
2014/04/06 19:07
名前:高田馬場 :
客が上とは思わないけど、え?とおもっちゃいますね。ありがとうございますとか挨拶とかごく普通の事として生きてきたので...歳を取ったのかなあ?自分だけなのかわかりませんが、ちょくちょく感じる事が増えてきました。ありがとうございましたと言わないだけならまだしも、明らかに小馬鹿にした対応や上から目線の態度の店員もいます。俺、客だっけ?買い物したんだよね?何か嫌な思いさせたかな?などと、色々考えたり、不愉快になったり、混乱します。でも、そんな事がこれからは一般的になって行く気がします。
2014/10/23 05:33
名前:管理人 :
「ありがとうございました」という言葉でなくて、客を不快にさせない態度が大事なのかもしれません。
ただ、学生バイトだなと思ったときは、少々態度がよろしくなくても目をつぶることにしています。
不快に感じたときは、逆に(レジしてくれて、売ってくれて、おつりくれて)「ありがとう」と言うことにしています。ありがとうと言えば、不快な顔をこちらがしなくてもよいので・・・。
2014/10/23 06:10
名前:くろす :
私が思うに、「あいさつはして当たり前」という教育は一種の洗脳のように思えますね。
世の中にはありがた迷惑な状況になることは多数あります。
心の中では「この人邪魔」と思っているのに「ありがとう」と言わなければならない。
自分に嘘をついてまで不快な相手を褒めるという行為は心が苦しいです。
しかもその様な人に限りまして、自分が邪魔者とは思われていないと考えまして、
他所でも不快なおせっかいを焼き続きます。
もちろんそのおせっかいに助けられるという人もいるでしょう。
しかしその助けられた人の意見のみが相手に伝わるといいますのも不平等な話です。
不快を感じたのなら、社交辞令的なあいさつをしないという選択肢があってもよいのではと私は常々思っています。
しかし学校の道徳教育においてあいさつは必ずしなくてはならないと刷り込まれているんですね……
そしてあいさつをしない人間は悪!そんな風潮が作られます。
この例文のコンビニ店員に不快感を感じたという人もこの道徳観に洗脳をされた結果なのではと思います。
この社交辞令という刷り込みは現代人のいらぬストレスを生み出しているかと思うのですがどうでしょうか?
2014/10/28 07:52
名前:管理人 :
>私が思うに、「あいさつはして当たり前」という教育は一種の洗脳のように思えますね。
道徳観、倫理観は、社会の洗脳でしかないと個人的には思ってるのでそうだと思います。
>不快を感じたのなら、社交辞令的なあいさつをしないという選択肢があってもよいのではと
>私は常々思っています。
1個人としての自己主張なら、そういう選択肢は許されると個人的に思います。
近所づきあいとかで、あいさつしないとかは、個人の自由の範疇だと思う。
個人的に思うのは、
会社の同僚や上司に社交辞令的な挨拶をしないのはありだとおもうけど、
お客さんとかに、不快を感じた程度では社交辞令的なあいさつをしないというのは、ほぼありえないと思います。
■
挨拶というのは、世渡りの術の一種だと個人的には思います。
気に入らない相手でも、それなりに立てていればトラブルになりにくいし
相手も人間なので、きちんとした対応をしたら態度をあたらめる場合もあります。
僕は挨拶ができる人間じゃないので何とも言えないですけど、
この程度のことで腹を立てるのもどうかと思うと同時に、
この程度のことで意地を通すのもどうかなぁと思います。
意地を通す場面は、もっと重要な場面に限定しないと、若くないと疲れるような気がするんですね。
2014/10/28 08:13
名前:くろす :
お返事ありがとうございます。
誤解のないように申しますと、私は挨拶をしないような礼儀しらずではありませんよ?
ただ不快な人に社交辞令を返すのに酷く疲れるという話です。
ご意見とは少し違いまして、逆に心を殺してまで偽っている事に疲れているんですね。
意地を張って自己主張ができればどれだけよいか……
話は反れましたが、私が言いたいのは挨拶を求める側の押し付けですね。
挨拶返しはされて当然、ではなくて
返されなくて当然、返ってこないのは自分に非があったのでは、と思うこと、
もしも返ってきたら嬉しいな、くらいの謙虚な気持ちが大事だと思います。
このコンビニ客はそのような気持ちを持っていない、
あるいは客としての傲慢があるのではと私は感じました。
客商売である以上は、持て成す態度は身につけるべきなのですが、
その上に胡坐をかく客の怒りといいますのも、疑問を感じるのです。
連投失礼しました。
管理人さんも面白いブログ作り頑張ってくださいね。
社交辞令的あいさつではなく、心からの気持ちでそう思っておりますよ。
2014/10/28 08:51
名前:管理人 :
>その上に胡坐をかく客の怒りといいますのも、疑問を感じるのです。
僕はそういう人間を不快に感じる、嫌いだということで、たぶんこのエントリーを書いたんだと思います。
2014/10/28 11:08
名前:ゆ、 :
くろすってやつ、変なやつ。
なーにが言いたいんだろ。
2015/08/25 16:02
名前:管理人 :
・自身が周りから迷惑だと思われていない人がいる。A氏と便宜上名前をつける
・A氏は、当然のように「挨拶?」を要求する
・心を殺して、A氏に対しても「挨拶」が、正直疲れる。
・A氏に挨拶することで、A氏自身が周りから迷惑だと思われている自覚が生まれない
・本心では、「ありがとう」と思ってないのにそういうことをいうと、A氏は感謝されることをしたと誤解(錯覚)するのでは?
==
・こういう理不尽な状況が生まれるのは、「あいさつはして当たり前」という教育が原因では?
・A氏のためにもよくないのでは?
==
今読んでみると、こんな流れだかと思います。
1つ目のコメントではそういう風に読めなかった記憶があります。
僕の結論は、A氏は、挨拶とか関係なく、どんなに世界が変わっても、迷惑な存在で、そのことを自覚することはないだろうと思うので、考えること自体、時間の無駄。
2015/08/26 01:58
名前:とおりすがり :
そもそも、挨拶は「同盟の延長」です。同盟関係にないなら、人間関係は疎遠以下(疎遠・険悪・敵対)です。表面上でも友好関係にあるとするなら挨拶すべきでしょう。逆に、そうでないなら、表面上も繕いたくないならはっきりと「挨拶をしない」でいいでしょう。但し、相応の覚悟をして下さい。基本的には「戦って当然」ってことですから。ちなみに、戦いの口火を切るためには、大義名分などの別のファクターが必要です。
コンビニからしてみれば、客とは友好関係にないといけません。表面上。ただそれだけのことです。客からみて友好的でないコンビニに対しては戦って当然です。というより、そんな疎遠な場所で買い物をする人は、疎遠であるが故の確認作業が必須なのであって、信用の獲得の手法をどうするかはそれぞれ。そもそも、教育が行き届いてない店舗において飲食物に毒物や汚物が混ざっている可能性をどうやって否定するんでしょうか?
単にそれだけのことです。
多くの場合において、「自分が大事にされていたい」という欲求があります。挨拶されなかったりすると、そこの評価が下がります。なぜか下がります。そういうことです。でも、大事にするということがどういうことか考えれば、自分の意志であろうとなかろうと、「気に掛けること」と「労うこと」は、たいていの場合は実感を伴うための導入口としては間違いなく必須でしょう?そういうパターンによるものであって、事実や真実がどうであるかはほぼ関係ないです。大事にされたい気持ちが強い人と、煩わしくて放っておいてほしい人と、この2つのどちらかパターンに属する人はかなり多いと思われます。前者は所謂DQNなどと呼ばれる母集団に多く、後者はNEETに多いパターンだそうです。前者も後者も、他者との距離感を損ない、高確率でお互いに不幸な気持ちになるほどの行動様式(要するに距離感がうまくつかめない)が、本能的な部分とのかい離が激しく、また矯正をされていない場合は、色々と衝突が発生します。「ありがとうをいう、ごちそうさまという我々は、素晴らしい、言わない人間は神経を疑うという発言」をする人って、「挨拶が出来ない人」と同じくらい、他者との距離感をうまく保てる人だとは、どう考えても思えないでしょ?だから、こういうことで衝突が発生したら、どっちもおかしいんですよ。その場仮に言い争いがあったとしても、避けるのが正しいの。
なので、普通は当事者間で避ける。大義名分も立たない、利益もない戦争なんてしない。
それを避けないとしたら、宣戦布告と見做して良いのです。
ほんと、単に、それだけです。
2015/09/23 23:42