「人と違う生き方をするのは、それなりにしんどいよ」と雫の父親は言ったが、本当にそうだな。「雫の父親」って何?と思って検索して調べたら、「耳をすませば」の登場人物の発言なんですね。
他の国はどうか知らんが、少なくともこの国では。
社会から後ろ指さされるのはそんなに問題じゃない。普通でない生き方しかできない人間は大抵、子供の頃から様々な迫害を受けてきているから、個々人なりの受け流し方を自然と身につけているからだ。
しかし、歳をとると、「同志」達は次々と「普通」の世界に吸収されていく。
あれだけ尖っていた奴も、才能あふれる変人だった奴も、社会を変えると息巻いていた奴も、
競争し続けることや、流れに逆らい続けることに疲弊しきって「普通」になっていく。
それでも「普通」になれない人間はどんどん孤独になっていく。
最早誰も理解し合える人間はいなくなる。かつての同志達からの「なぜ普通でないのか?」という圧力だけが残る。
普通でない生き方をするということ
引用先の苦悩って、「ニヒリズム」的な苦悩だと思うんですね。しかし「ニヒリズム」的な苦悩というのは、普通の生き方をしてる人の間にもある苦悩なんですよ。たまたま、普通に生きている幸せな人しか見てないから気づかないだけで。
ともすれば、「人間を豊かにする」はずの社会や政治や教育や宗教への不信感が募り、まともな人間関係すらも作れず、ひたすらコンビニエンスストアとファミコンゲーム、ウォークマンに代表されるような自閉的文化に足をからめ取られてしまう。そして、思春期にして既に「何をやってもダメだ」という暗い展望を抱えざるを得ず、人間不信・社会不信の冷めたニヒリズムが蔓延してしまう。
宮崎氏は、そんな時代に、どうしてもニヒリズムや個人主義とは無縁の価値観、つまり若者を臆面もなく励ますための「健やかな作品」を提示したかったのであろう。そして、その制作動機は、宮崎氏自身の長い葛藤の結果生まれたものでもあるはずだ。
「耳をすませば」試論
「普通に生きない」と「普通に生きれない」とでは違う
でも、共通項があったりして、錯覚して、「同志」だと思ってしまうわけです。しかし、勘違いであっても「同志」には間違いないと思います。「同志」だと思えることが大事であって、実際の細かい、もしくは大きな違いでさえも関係ないんですよ。
年老いれば、長く生きているという事実だけでも、「同志」になれるんですから
妥協(あきらめ)という悟り?!
若者から見るとそう見える現象も、実はそうではない部分もあるということです。でもって、妥協(あきらめ)することを負けだとか、意思薄弱だとか、競争に疲れたからという発想は、思い込みだなと思います。
もしかすると、別にいったんあきらめても、普通になっても、またもとに戻ることも可能だということを忘れてるんですよ。
一旦、くじけたら、ダメだという思いに縛られてるのかも。
もちろん、あきらめてしまって、再度立ち上がるのには、かなりのパワーが必要だけど、でもって前よりも困難な状況になるだろうけど、そういうのを恐れている可能性もある。もしそうなら、その発想自体が、もう若くない(年寄り)だともいえる(^^;
歳をとると、普通の人たちも、孤独になっていく
そうでない人もいて、反論する人たちもいるでしょう。でもそれが多数派かというと違うかもしれないということです。家族や子供がいるから、そういうのに気付きにくいだけという部分もあるかも。強靭な精神なんていらない
一緒になって盗んだバイクで走り回ったような奴らから「なぜ普通にならないんだ?いいぞ、普通は」と言われるようになる。・彼女(彼氏)はいいぞ
普通でない生き方をするということは、そういった時の試練に耐えうるだけの強靭な精神を必要とするようだ。
普通でない生き方をするということ
・結婚はいいぞ
・子供はいいぞ
・出世はいいぞ
・海外旅行はいいぞ
・犬(猫)はいいぞ
・iPhoneはいいぞ
なぜ、xxxしないのか?
まだ、xxxしないのか?
普通の人たちだって、様々な圧力を受けてるわけで・・・。
「ニヒリズム」的な苦悩からの解脱
でも、普通になったからといって、その苦悩から解放されるかどうかは別。上の例で、結婚はいいぞといわれて、頑張って結婚しても、別に何かを保証してくれるわけではないんですね。
幸せというのは、半分以上は作り出すものであって、与えてもらうだけのものではないんだから。
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