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貧乏人が急に金持ちになって、人間不信になる例もよくあるよね。
元々モテてきた人や、元々お金持ちな人は、モテることやお金があることが当たり前だと思ってる。
でも元々モテなかった人や、元々貧乏だった人は、それを失うことを考える。
だから私の場合だと、持病が再発してまた太ったら、この人たちはさーっと離れていったりイジメてきたりするんだろうなと思うし、
成金も、もし事業が失敗したりしてまた貧乏になったらすぐ人が離れていくんじゃないかって考えるんだろうと思う。
不幸な考え方なんだろうけど、抜け出せないんだよね。人間、気持ち悪い。
https://anond.hatelabo.jp/20120710233036
まずは信じられるものを探しましょう
1.自分自身は信じられるか?2.人間のどの部分なら信じられるか?
人間不信になるということは、逆に人間を信じたいって気持ちが大きい可能性があります。
完全に絶望したり、あきらめたりしたら、人間不信を超える状態になるわけですからね。
まずは、土台というかほんの少しでも信じられる点を見つけ出して、そこからどうするかを考えてみるのはどうでしょう?
要は心のよりどころを確保して、そこから広げるなり、その部分だけ大事にするなりすることにより、人間不信でも人生を楽しく過ごすことができます。
神を信じられる人は、そこからスタートすると良いかもしれません。神という存在は、絶対化できます。神を信じられない人は、自分自身と周りの人たちとの関係という相対化したものからスタートしなければなりません。
自分自身が信じられない場合でも、どこか1点でも信じられるところを見つけるのがよいでしょう。
人間不信に多くの人がならないのはなぜ?
多くの人が、人間不信にかからないというのが事実だと仮定して話を進めます。それは、盲目的に信じてるからです。または、恋愛と同じく熱くなって周りが見えない状態になってるからです。
人はあなたを殺さないというのを無意識に信じている人と
過去に悲惨な目にあって、人はあなたを殺しかねないという恐怖を持った人とでは
違うように思いますが、人間の本質というのは各個人がどのように考えるかと別に存在することから考えてわかるでしょう。
人はいつか死にます。でもそのことをきちんとわかっている人はほとんどいません。明日も生きていることを盲目的に信じてるからこそ、今現在を楽しめるのです。明日死ぬかもわからないという不安を抱いてしまうと、今現在の生き方も考え方ももう以前とは違うようなものになるでしょう。
もしかして、人間不信でも、楽しく生きれるかもしれない
味覚の違うA君とB君・料理の味がわからないA君
・料理の味がわかるB君
はたして、幸せなのはどっち?
A君は、おいしいものを食べても、まずいものを食べても味の違いがわかりません。その代り、多くの人がまずいと思う料理も「おいしい」と感じて食べることができます。
B君は、味の違いが人一倍判るため、少しでもまずいものを食べなくてはいけないときは、地獄のような苦しみを味わいます。生ごみを食べているかのような感覚です。しかしながら、味の違いが判るので、本当においしいものを本当においしいと感じられ、微妙な味の差もわかります。
幸せというのは最終的には、本人が感じる感情なんですね。
周りの評価を気にする人も、そうでない人も、最終的に本人が「幸福」だと認識できないと、幸せではないのです。
多くのものを求めない、小さくても確実なものを
人間不信になった場合に、無条件に人を信じられるように戻ろうなんて考えないことが大事なことかもしれません。人間を信じたいと願う人は、ドライに考えて割り切る路線を選ぶべきはないと思います。もともとドライに考えられる人は、人間不信になりにくいんです。
ドライに考えられる人は、金や容姿が人間にとって重要なのあたりまえ、お互いにメリットのないような関係はありえないと考えてるので、同じ現象にであっても人間不信になりません。もともと、特定条件においては、人間を信じていないんです。
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