「差別」と「区別」の明確な境界がないので、「正義」と「悪」に明確な境界を作れない

  • 投稿 : 2017-08-18
  • 更新 :
私たちが絶対に正しく、あいつらは完全に間違っているという発想って宗教的な狂信でもなければ至らない境地だよ


あとこういう絶対的正義を信じる連中が、
「どっちもどっち」っていう考えを毛嫌いするんだということも分かった
そりゃ絶対的なものがあるという発想をする人間からすれば、
無謬性を損なうような批判は絶対にあたらないということだから
web.archive.org:反差別界隈が「絶対的正しさ」「完全な悪」とか言い出してて戦慄

自分が差別してないと思ってるの?
それともある一定のラインの差別までは許して、できるだけ差別しないようにしようねってことなの?
差別しない人間って発狂するしかないと思うんだけど


自分は「認知できない被差別者」を想定する限り差別と区別は分断できないと考えてるんだけど、そうすると現行制度がどこかで被差別者を孕んでいる可能性があるように、自己規定・アイデンティティのような「存在」もまた差別であると考えなければならない。だから差別しない人間は発狂すると書いた

多かった意見として、「差別のない状態が理想だから、そうならないように努める」的なものがあったけど、それは「存在」という差別の容認ではないのか。自分が認知できる差別だけを許さないのならそれでいいかもしれない。でも認知の外を見るには「区別」をしてはいけない。反差別の人に発狂する覚悟はあるのか
差別は悪って言うやつって

明確な境界があると信じないと、不便であるとか、自身の思想にそぐわないとか、自身の倫理観を保てないとかそういうのはあると思う。
まあ、結果論やご都合論なんだと思うんだけどね。

・「差別」と「区別」の明確な境界がない
・「正義」と「悪」に明確な境界を作れない

というのを認めてしまっても、本当な良いんじゃないかなぁとは思う。
それでも、「差別」は悪だろうし、この世の中に「正義」が存在しないと、希望がないとは思う。

悪用はできるよね

・「差別」と「区別」の明確な境界がない
・「正義」と「悪」に明確な境界を作れない

たとえば、これが真実らしきものだと仮定したときに、心理的に揺さぶりをかけて、考えを変えさせるとかにも利用できるよね。
なぜ、認めてしまったほうが良いかといえば、否定することで現実を守れるどころか、かえって現実を悪くするかもしれないってことなんですよね。

差別問題と戦うのは、正義の人ばかりではないってこともあると思う。
つまり、よこしまな心をもった正義の人たちもいるわけで、それは悪と紙一重なところもあると思う。

そういう現実を否定すると、いろいろ矛盾が生じて、結局、矛盾を解消するために、トンデモ論理に頼りかねないと思う。トンデモ論理というか、狂信的というか過激な正義になりかねないと思う。

※昔よくあったのは、「必要悪」論理とか・・・。「必要悪」ってかなり悪用されたと思う。

差別はいけないは、表面上だけきれいになる場合も多い

・学歴差別はいけない
・外見差別はいけない
・職業差別はいけない(職業に貴賎なし)

結局、この手の思想のここ20年程度みても、以前よりも実際はひどくなってるんじゃないの?
つまり、それは差別でないという論理が強化されて、表面上はキレイにきれいになったけど、実態は前よりもひどくなりましたとさぁみたいな。

社会の秩序と、正義との相性は、実際には良くない場合も多い

・社会秩序を乱すな
・正義(あるべき姿に)

現状がよろしくない状態(悪?)の時に、正義って、社会秩序と非常に相性悪い思う。
だからこそ、いつも、正義を実行しようとしたら、社会秩序と衝突するわけで・・。

つまり、「正義のためなら、社会秩序と乱すことは構わない」という論理みたいなものを手に入れないと、運動できない・活動できないという面は必ずあると思う。
でもって、この手の構図って、悪用できて、
・「社会秩序」を乱すのは正義なのか?
・本当の正義は、社会秩序を乱さない
みたいな論理で、一掃できたりするわけですね。

割り切りは、生きやすく?活動しやすく?するけれども・・

実際には、迷いや葛藤がなければダメなんじゃないの?と思う。
迷いや葛藤があっても、信じるべきものは信じないと、たぶんいろんなものが崩壊するよねというのはあると思う。

現実や矛盾を認めつつも、それでいても理想は持ち続けないと、ダメなんじゃないの?というのが僕の今の考え。

自身の都合で、論理を組み立てる

これは他人と自分のズレを感じたことなんだけど、自らが存在することを前提に考えてる人が多いんだなと思った
差別は悪って言うやつって

世の中の人大半は、そうなんじゃないの?正義の人も悪の人も含めて・・。
悪も多数派になって、多くの人はそれは「悪」ではないと認めだしたら、正義になりかねないよ。

どこまでやっていいのか?問題

「差別主義者」にはものを売りません
とかいうのが、正義かもしれないが、実際にそれをどこまでやっても問題ないか?って話はあると思う。

「差別主義者」に物を売らないのは、「差別」かどうかなんですけどね。
僕は差別だと思うけど・・。

人権侵害と同じく、特定のケースでは人権侵害を認めてたりするけど、でもその場合でもここまではOKと限界ラインを設けられてることはほとんどだと思う。つまり、限界ラインを超えれば、認められている特定のケースでも、人権侵害になるってことですね。

この発想で行けば、正義だという大義で許される範囲っていうのが必ずあるとは思う。
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