「他人と比べない」という幸せの形について

  • 投稿 : 2017-04-30
・成功した人が「人と自分を比べるな」といえば、言葉の重みと真実感があると思う
・成功した人から言える、きれいごとに過ぎない

そういう風に考える人は、「他人と比べない」というのは無理なので、この路線はあきらめたほうが良いのでは? また「他人と比べない」なんてキレイごとで嘘だとか思わずに、自分には合わない生き方だなぁと思えばいいと思うんですね。

「他人と比べない」幸せがあるかもという現実を一掃しなくても、幸せになれるわけですから気に入らなくてもスルーしておけばいいわけです。

そういうスルーする姿勢がある意味、「他人と比べない」という意味合いにもなってくると思います。

つまり、どんな生き方をしても、「他人と比べない」という一面がなければ、苦しいですよっていうのがあると思う。

「他人と比べない生き方」では幸せになれない

人と比べることや競争を否定的にとらえる心理学者も多い一方で、それがむしろ人間の普遍的な心理と考える学者も、実は少なくない。

その代表格と言っていいのが、『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)で、日本でも有名になったアルフレッド・アドラーだろう。カーネギーなどに影響を与え、自己啓発の元祖とも言われており、現在の有力な心の治療となっている認知療法を創設したベックや、カウンセリングのパイオニア、ロジャーズ、あるいは、交流分析を考案したバーンなどにも強い影響を与えたとされる。まさに、精神分析以外(この精神分析学界の最初期メンバーだったのだが、フロイトとたもとを分かっている)の心の治療の源流と言える人だ。

彼は「人間には“優越性の追求”という普遍的な欲求がある」と考えた。

これがうまく満たされないと、劣等感というものを感じるのだが、それが人間のパワーになると考えた。ただし、この劣等感があまり強くなりすぎたり、あきらめにつながったりするようないびつなものになった場合に、これを劣等コンプレックスと呼んでいる。要するに、「どうせ負けるんだから、やらない」といって勉強しないようなパターンだ。

アドラーは、「勇気づけ」といって、このような劣等感を抱く際に、やれば勝てるはず、やればできるはず、と思わせることの重要性を説いている。
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「他人と比べない生き方」では幸せになれないという人は、アドラー心理学があるので、それで理論武装したらいいと思うよ。正しいと思える心の支えさえあったらOKだろうから、権威があって信じられる論理を入れたらいいんじゃないのかなぁと思う。

他人より劣ってることで、努力する喜びを知れるっていう幸せがあると感じられたりするんじゃないんですかね? 他人と比べるのが好きな人は、ポジティブな考え方も相性がよいので、そういうのとの合わせ技で、価値観を構築していけるのではないか?と思う。

「他人と比べない」という幸せの形について

価値観を作り出して、その価値観で幸せになる

成功した人にも多いけど、成功した人が作り出した価値観というのは、周りにも影響を与えて、その人だけの価値観で留まらないという違いがあるかと思います。その点で、成功した人の言葉の重みは違うと錯覚?してしまうんだと思います。

でも、原理は、自身の世界観を構築して、その土俵の中で幸せになるっていう方法論だと思います。

お山の大将になってなにか楽しいか?といわれたら、お山の大将でもわがまま言えたら楽しいんじゃないですかね?と逆に僕は思うけどね。
いやいや、もっと外の世界でビックにならないととかいう話もあるけど、外の世界では、もしかすると、お山の大将より待遇がわるいかもというのはあると思う。

幸せというのは
・相対的なものがある
・切り取り方でいろいろ変化する
とかそういうのもいろいろあると思います。

何かを否定することで、肯定できないし、幸せになれない

どういう思想をもっても、そういう一面があると思う。
何かを否定して肯定すると、否定する根拠が崩れると、崩壊するという簡単な原理によって、不幸になりかねないっていうことがあろうと思います。

あと、否定する根拠を見つけるのは簡単だけど、肯定する根拠を見つけるのは難しいという原理もあるかと思います。つまり、安易な路線でなにかを構築すると、崩れやすいってことですね。

負け犬にはなりたくないな

・負け犬だけど、幸せです
・負け犬には、なりたくないな

「他人と比べない」というのは、いちいち反論しなくてよいという利便性もあると思う。

「他人と比べない」というかは、集団に属したくない

集団に属して、弱者の立場だと、たいていデメリットを押し付けられて、不幸になる。
それぐらいなら、集団から距離をおいて、自身の世界を作ってひここもりがちになっても、そういう生き方のほうが幸せになれる可能性はあると思う。

でも、そういうのは、集団に属する弱者以外の人たちにとっては、迷惑なんですね。つまり、デメリットを押し付ける先がなくなると、自身の幸せが削られるっていう話になるので・・。

そこで便利なのは、
・ひきこもりはいけない
・社会性がないのはいけない
・自身の閉じこもりはいけない
・他人と比較しないなんていうのはダメだ
とかそういう物語をつくって、一掃しようとするわけですね。

でもって、人と比べる世界を継続させよいうとするわけです。

・負け犬
・落伍者
・怠け者

とういうのとかいろいろ物語は作れますよね。

でもさぁ、弱者にデメリットを押し付けるのは、人間としてどうなの?とかそういうのは考えないの?というのはある。
たぶん、考えないと思う。考えても自己責任でしょうとかそういう話になると思う。

この時点で、自身の世界を構築して、自身に都合のよい価値観を作り出しているのと同じだと思うんですね。

幸せになれるかどうかよりも、精神安定を優先させて・・・

アドラー心理学とかも、路線的にはこれだとおもうけどね。

精神を安定させられる論理があるのなら、それを一時的にでもすがれば、苦しみからは逃れられるよっていうのはある。苦しくなくなれば、幸せになる光も見つけられるかもしれないなぁと思う。

苦しい時に光を見いだすのは難しいけど、心の余裕があるときに光を見いだすのはそれほどでもないっていう原理があると思う。

思春期の頃は・・・

そういう人がこれ読むのか不明だけど、そういう時期は、精神安定を優先させた方が良いと思う。
まあ、いうなれば、非常事態と同じ。

思春期は、誰でもあるけど、その苦しみ?重さは、人によって明らかに違う。

感受性とは直接関係ないが、感受性を考えてみれば、そういうのはすぐわかると思う。


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