「義理」「人情」は、非合理的だけど、大事にしたほうが良いと思うけどなぁ

  • 投稿 : 2017-01-31
職場の飲み会、入社してから10年ほど、歓送迎会と忘年会の年五回くらいの飲み会にはほぼ参加していた。
が、体力が曲がり角を迎えたことで、何もかもすべての飲み会はお断りすることにした。
「葬式に誰も来なくなるよ」

「送別会」あたりは、メリットなくても出るようにしたほうがよいのではと個人的には思う。
「歓迎会」も、年輩?になれば出る必要性?を感じなくなる?けど、やっぱり出てあげたほうが良いかもと思う。

しかし、そんなことをしていたら親から「そんなことをしてたら葬式誰も来なくなるよ」と言われた。
「葬式に誰も来なくなるよ」

葬式はたとえであって、親が言いたいのはそういう話ではないと思うんだけどね。

仕事で困った時に、本当の意味で助けてくれる人はいないとかそういう感じの話じゃないかなぁと思う。仕事で困った時のための事前投資とかそういう意味合いでなくて、気持ち(心根)の話。

喪主は私になるんだろうけど、親の知り合い呼んだら私が疲れるし、父親は誰々に連絡しろと言ってるけど全て無視して親戚も会社関係も一切呼ばず私と母親だけの密葬にするつもりなんだよね。
呼んでほしい人リスト、みたいなものを渡されたけど渡されたその日に捨てた。
持ってたら後々面倒だし。
「葬式に誰も来なくなるよ」

価値観によるとは思うけど、葬式に呼んでもらいたいリストをその日に平気で捨てれる人は、親不孝者なんじゃないかなぁと思う。親の気持ちを考えたら、そんなに簡単に捨てれるかなぁ。まあ、他人のことは知ったことではないので、お好きにどうぞって話ですけどね。

>持ってたら後々面倒だし。

そんなに簡単に割り切れるのが、微妙な気が・・。

どんなに合理的に説明できても

結局、なにを一番大切にしてるか?っていう話が重要で、

・周りの気持ち
・自身の気持ち

に二分されると思う。もちろんどちらか一方だけということはマレだけど、「自身の気持ち」しかない人は微妙な気がするけどね。
別に、それはそれでも悪くない価値観だとは思う。

もちろん「周りの気持ち」を大切にしていても、葬式に来てくれるかどうかは不明だけど、別に葬式に来てもらうことが目的じゃなくて、心の問題だと思う。

論理と気持ちの話

法律上祭祀者が決めていいはずなので子がきめられます。つまり生き残ったもの勝ち。
例えば、親と子供の宗教が違う場合で、親が亡くなった場合、どちらの宗教... - Yahoo!知恵袋

亡くなった方が信じて宗教で送ってあげるのが親孝行でしょう。亡くなった方にはわからないわけですが最後の親孝行として送ってあげるほうが気持ちの上で納得できるのではないでしょうか。
例えば、親と子供の宗教が違う場合で、親が亡くなった場合、どちらの宗教... - Yahoo!知恵袋

まあ、いくら立派なことをいっていても、遺産とかあると、気持ちの問題とは別に、揉めるけどね。

それはともかく、いくら論理がキレイでも、自身以外の気持ちを大事にしてるかどうか?という観点は大事だと思う。

他者のことは・・・

だいたい葬式に来てもらうために人間関係を持つわけじゃないだろうに。
人間関係を継続した結果として葬式に来てくれる奇特な人が現れるわけであって、そのために人付き合いするわけがない。
そんな親の葬式に何人が来るんだろう。
「葬式に誰も来なくなるよ」

人間関係継続しなくても、思いがあれば、葬式に行く人もいるよ。
論理を強化するために、他者を卑下するのは微妙な気が・・・。

論理で押し通す世界

私たちが満員電車でベビーカーをたたまない理由|お湯アナ渡部郁子の湯むりえ日記 ~ぬる湯のすすめ~

最近は「合理」で押し通すので、厳しいんじゃないかなぁ。世の中、殺伐するのは、周りのせいだけではないとは思う。
お互い譲り合う気持ちがないと、うまくいくものもいかないという原理を無視しすぎだと思う。

悪くないから一歩も引かないみたいな人たち多すぎるような。
でもって、相手にだけ1歩ひかせようとする。

追記:

こじんまりしてても、葬式はやったほうがよさそう

「葬式に誰も来なくなるよ」

葬式上げなくて後で困った事例のはてブが多すぎてビビる。そんなあるあるネタなのか?

2017/01/31 09:58

はてなブックマーク - 「葬式に誰も来なくなるよ」

はてぶコメントをみてるとそんな雰囲気。

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