なぜ、「人の幸せをねたむと、絶対に幸せにならない」という幸せになる原理を多くの人がいうかといえば、
人に不幸を押し付けると、実は、自身が幸せになりやすい
という原理をひた隠しにするためではないか?と思う。
不幸を押し付けるとねたむのとは、違うんだけど。
たとえば、幸せそうな人に、自身の不幸の一部を肩代わりしてもらえれば非常に助かるわけだけど、でも、幸せな人にとっては何のメリットもなく、迷惑なだけなんです。
まあ、慈善活動とかそういう風に思ってもらえれば、肩代わりしてくれるんですけど、でも、不幸の種類を選びたがるので、事実上、引き取ってほしい不幸を引き取ってもらえないということになります。
で、仕方がないから、弱者を狙うわけです。
弱者に、自身の不幸を押し付けて、でもって自身は逃げ切るように、幸せになるということが可能になります。
この場合、弱者で抵抗する力がないので、ある程度の不幸を押し付けることが可能です。
でも、弱者にとっても、迷惑なのは変わらない。
で、幸せな人と、弱者の人たちは、立場が違うんだけど
「人の幸せをねたむと、絶対に幸せにならない」という共通の言葉で、結ばれることができるんですな。
まあ、その部分だけは素晴らしいけど、まあ、「私の幸せ」の妨害するなってだけの話ですな。
人の幸せをねたむと、絶対に幸せにならない
本当ですかね?人の幸せをねたんでいる、意地悪をしている人たちが、幸せじゃないとか?
幸せでないと信じたいだけでは?
上流階級(本当にあるの?)とかでも、ねたんで意地悪人たちいますよね。
若さをねたんでとか単純な話でも・・。
人を(ねたんで)いじめると、絶対に幸せにならないというのが、不成立なのはあきらか。
人に不幸を押し付けると、幸せになれる
そんなことはありえないとか思う人もいるでしょう。それは、幸せの形とか、幸せの認識のしかたが、人ぞれぞれだから。
つまり、価値観に依存するから、認識に依存するからです。
たとえば、僕は待遇も悪くないほうだと思うけど、でもなんか、不幸をいわゆる下働き?の人に押し付けてるようで、そういう一面を意識しすぎると、幸せな気分になれないんです。
つまりですね、幸せであろうと、不幸であろうと、見たくない一面を強く意識してしまうと、心理的負担がかかると。
で、見たくないという一面は、人にとって違うし、一部の人たちはそういうものがないっていうのもあるとは思う。
資本主義社会(新自由主義)で、キレイなまま、幸せな人なんていないと僕は思うけどね。
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