愚かな人たちに判断をゆだねるのは危険だとかいう思想につながってないのかなぁとちょっと不安。
自由に意見をいわせると、デマがあふれるからよろしくないという感じで・・。
風評被害関係
しかし、正しい情報を得ておきながら、多くの人たちが自己判断して野菜や魚を買わなくなるのは、風評被害とは言わない。出荷制限がされた野菜や魚があるとして、その産地の他の野菜や魚を購入するのを不安に思うのは、人として当然出てくる感情のひとつであり、自己判断して買い控えをしているにすぎないからだ。
そのあたりは「大丈夫って言われているのに神経質だな」や「食べてもただちに健康被害はないのに」というレベルの話になる。安全と言われながら不安に思って念のため買わない行為は風評被害とはいわないのだ。
「風評被害」の使い方を間違っている人が多すぎる件 | ロケットニュース24
「正しく理解できていたら、安心して買えるはずだ」みたいなものは、暴力だという認識がないのではないか?と思う。
正しくも、ある程度、正しく理解できていたらOKのはずで、厳密には違いっていうのはあってもよいはずなのに…
これは民主主義とは全く相反する、力による支配をもたらします。たとえば「鼻血の原因は原発事故。放射性物質のせいで鼻血が出ている」と社会的影響力が強い人が発言すれば、たとえ科学的根拠に乏しくとも、現地の住民の大多数が否定し反発しようとも、いわば「力づく」で「鼻血は原発事故が原因」にされてしまいました。
被災地を搾取し被害を拡大してきた「フクシマ神話」――ニセ科学とデマの検証に向けて / 林智裕 / フリーランスライター | SYNODOS -シノドス-
科学的根拠の薄いものを信じる人たちがいるからといって、
その発言自体を禁止、封じ込めようとしてよいわけないとは思うんだけど?!
反論として、根拠が薄いこと、不当であるという発言はよく、最終的にどちらを信じるかは強制できないものではないか?と思う。
あと民主主義というのは、「多数派という数の力」なので、社会的影響力が強い人が言ったとしても、多数の人たちが共感しない限りそうはならないと思うんだけどね。
ただ、少数派でも声が大きい人がいえば、それが多数の意見に見えてしまうという部分はあると思う。だからといって、声の大きい人に黙れというわけにもいかないでしょう。
・正しく判断?できるように教育しなければいけない
本当は、科学の話になってるけど、実際には、政治的に正しく判断できるようにっていう要素が強いですよね。
BSE問題でも、日本は輸入禁止してますけど、アメリカは科学的な根拠としておかしいってクレーム入れてましたよね?
でも、科学的根拠をどう判断するかは、人々の意識(世論・政治)に任されている話ではないか?と思うんですね。
風評被害を受けたアメリカの畜産業の人々は苦しみましたっていう話もないんですかね?
愚行権の他の事例
たとえば、ちゃんと勉強したら、ちゃんと理解したら、予防接種を受けないなんていう考えになるはずがないというは、かなり暴力的で身勝手な論理だと思う。でもって、虐待だとか言い出すのも、違うんじゃないか?と思う。
予防接種は一部の人がうけないと効果が半減することもある?ので、全員接種が望ましいということであろうと、義務(強制)でない限りは、各自の判断に任されているということではないか?という話です。
予防接種を受けさせない自由が認められないのは、ダメな社会では?!
・予防接種を全員接種強制しないのは、そこに責任や補償が生じる面もあるからというのもあると思う。
そのリスクを背負わないで、
表面上の、接種の自由をうたってながら、それを実行させない圧力というのは、民主主義なんでしょうか?
デマや風評で困っている人たちがいるのも事実
ただその大義だけで、なんでも許されるわけではないとは思う。表現の自由だからといって、なんでも許されるわけじゃないのと同じ。
・差別される ->ダメでしょう
・怖がって野菜などを買わない ->問題ないのでは?
怖がって野菜を買わないのは、差別だと言い出すとなんだか差別のような気がするけど、
それって、差別なんですかね?
基準値がxxx以下なので安全です
だから、安全だと思えっていうのは、暴力なのでは?農薬の基準値がxxx以下なので安全ですとなっていても
それでも、無農薬がいいとか思って買う人たちがいるわけですが…。
なにが問題なのか?といえば
社会というシステムでみれば、その行動は困るっていうときに問題だと認識すると思います。
つまり、社会をまず考えてという路線なんで、下手すると全体主義的な思想じゃないかなぁと思わなくはないんですね。
正しいことをしてるから、正しい路線だから問題ないという話はあるとおもうけど、
でも、それって民主主義なんですかね?
愚行権
『自由論』によれば愚行権は次の論拠において正当化される。
1.個人の幸福への関心を最大に持つのは本人である
2.社会が彼に示す関心は微々たるものである、
3.彼の愚行についての彼の判断と目的への外部からの介入は、一般的推定を根拠とするだろうが、誤る可能性が高い
4.よって彼自身のみ関わる事柄こそが、個性の本来の活動領域であって、この領域では他人の注意や警告を無視して犯す惧れのある誤りより、他人が彼にとっての幸福と見なすものを強要することを許す実害のほうが大きい。
一方でこの自由の主体たる人物は諸々の能力の成熟している成人であるべきであり、また社会的統制の実行を明確に回避しているわけではないこと、愚行の結果として受ける批判や軽蔑、拒否などは当人が引き受けなければならないことを主張する。ミルの自由論は自立と自律に対して倫理的にかなり厳しい主張をしており、結果主義や自己責任論を包含している。ミルの主張によれば、愚行を倫理的に非難することと法的に刑罰の対象とすることは別のことであり、刑罰は最低線の倫理からもたらされるとする。
愚行権 - Wikipedia
僕の理解が間違っているのかもしれないが、
愚行権を認めるからこそ、自己責任論というのも認められると思われるわけです。
予防接種でなにか問題がおこれば、ある程度は自己責任論的なものが適用できるのは、接種の自由があるからですよね?
個別の事例を一般化して、ごり押しする手法
良くない事例を1つあげて、それを一般化・抽象化した論理をつくって、それだけにとどまらず、あれもこれも盛り込んで、ごり押しする手法はダメなんじゃないかなぁと思う。
例えば、国が補償しないから、
国民が肩代わりして、愚行権を行使してはいけないという話になっているとしたら
それって、やっぱりおかしいですよね。
だれにも責任がないとかそういう場合もあるとはおもうけど、
そもそも誰にも責任が発生しないシステムも問題じゃないの?とかにもならないとか。
ごり押しする方向性っていうのも、やっぱりいろいろあると思う。
正しい情報発信が出てきていたら?!
医療ミスと同じで、ミスは許されないという価値観より
ミスはあり得るという価値観のほうが
より、問題を解決に進んだというのをみても
正しい情報発信ができていれば、デマや風評なんかに負けなかったとか
思えるのかなぁと思う。
ミスは許されないという価値観で改善をしても、ある程度まではよくなるんですけど
ある程度以上からはよくならないという部分をわかる必要があると思うんですね。
数年たっても、あれほどNHKとかでアレコレ放送しても、
学校教育で子供たち経由でアレコレいっても
変わらないとしたら、
解決手法の限界とかいうものなんじゃないかぁと思う。
風評情報をなくすこと、デマをなくすことが本来の目的ではないはずなのに
その部分のほうが簡単にみえて、実は難しいのに
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