・知識の問題なら、悪徳弁護士なんて存在できない
・ブラック企業の社長は、法知識がないからダメなのでなくて、もともと法を守る気がないのがダメなんである
「正しい知識があれば、正しい判断ができる」というのは、「正しさ」に依存する話で、知識量にはあまり依存しない。
あと義務教育とか国や権力側が推し進める教育は、
結果として、権力者や資本家階級に都合がよい教育であって、それに対応できる知識を身に着ける教育ではない。
たとえば、権力者や資本家階級から身を守るすべを教えてくるわけではないわけです。
そこまでは言い過ぎだとしても、
教育論を述べる人たちは、いかに自分たち?の都合のよい人たちをつくりだすか?ということに論点が置かれていると思う。でも、自分たちは時代に合わせて変わろうとはしない人たちばかりのようにも思える。
こういう教育を受けたかったという自身の経験に基づいて教育論を述べてるのならともかく、
自身は特に受けたいとは思わないが、こういう人たちにはそういう教育を受けさせるべきてきな話のような気がする。
教育といってるけど
実際にやりたいことは、「洗脳」「訓練」だったりそれに似たようなものだったりしたら、
たぶん、教育ではない。
「洗脳」「訓練」も教育には含まれるとはおもうが、そういう性質を利用したいだけと思う。
ルールは守るべき
しかし、間違ったルールは、現状に合うように変えていくべきという思想もあるわけで、ルールというものは、自身を律するものでなくて、周りを都合よく律するものに成り下がっている場合もある。
どこかの政治家がよく使っている手法のような・・。
議会で自身の都合の良い結果になれば、民意が反映されましたと言い
議会で自身の都合の悪い結果になれば、これは本当に正しい民意なのか?
この人もかなり高度に、法知識があるとおもうけど、
その法知識を、xxxをよくするために使おうとしているらしいのはわかるけど、
どうなんだろう?話はある。
決まったことは最低限守ってもらいましょうといい、
一方では、決まったことに対して異議を申し立ててるという
間違った行動ではないが、一方的な面があるのは確かだと思う。
教育という幻想
なにかあると、すぐに学校教育でなにかを教えないからという論調の人がいるわけだけど、本当にそうなのか?って話がある。インテリには、「私刑万歳」がいないか?といえば、そうではないのは明らかであると思う。だれだれとあげれば分かりやすいが、このエントリーと関係ない部分であれこれ言われるのは嫌なので、興味ある人は探してくださいっていうことにしておこうと思う。
主義主張というのは、正しい知識がないから、その思想に至る場合もあるけど、それがすべてでなくて、知識があろうとなかろうと、そういう思想になる人たちもかなりの数いるのです。
法は、私刑を許していないという知識を与えても思想は変わらない。
じゃぁ、なぜ許さないようになったのか?という歴史的背景を教えても、たぶんそうそうその思想は変わらないと思う。
思想を持つ前に、洗脳してしまえという話もあるが、
よほど偏向した教育をしないかぎり、なかなかそうならないと思う。
本当に「私刑」はダメなのか?という疑問を生じさせる自体がでてくれば、有無を言わさずダメという洗脳がされていない限り、思想というのは変わっていくものだからという面がある。
これは、間違ったルールは変えていくべきという思想があるのと似たようなものだと思う。
「私刑万歳」の人がそれなりにいるのは、学校で法律知識を教えないから?
「目には目を、歯には歯を」のハンムラビ法典レベルの人もいる。
その頃に比べたら法学もかなり進歩していると思いますよ?
内容は何故法律が存在するのかってところから道交法など身近なところまで。
中学・高校あたりで法律の授業をやるべきではないか?
「被害者の気持ちを考えたら、そんな軽い刑で良いわけではない?」という論調が意外と人気ですし、また報道(マスコミ)もそういう論調のことも多かったりするけど・・・。
それは「私刑万歳」ではないといわれればそうだけど、根底に流れる思想はそうなんじゃないの?と思う。
刑罰と言うのは被害者や被害者遺族のために存在しているのではない。
法治国家としての社会を守るために存在するのであり、
被害者や被害者遺族の報復手段でもなければ、気晴らしの手段でもない。
だからこそ全ての罪が親告罪では無く、
例え被害者側が"被害"と認識していなくても罪になるのだ。
第十三回 『死刑制度は復讐の道具じゃないと理解できない被害者遺族』:偏屈隠者の独り言 - ブロマガ
国家による刑罰の独占は、元々被害者に認められていた復讐権を剥奪した結果であるから、刑罰は復讐の代替として在るものだし、そう在るべきだ。このような言説が、まことしやかに語られてそれなりの時が経過している。私は以前にその思想史的な根拠について疑問を投げかけたが、今回は法制史的な根拠も薄弱ではないかとの疑いを提起した。無論、私は素人であるから確言することは避けたいのだが、思想史的にも法制史的にも明確な根拠が見当たらないように思える以上、「刑罰=国家による復讐の肩代わり」という言説は、要するに神話の類なのではないかという印象を強くしている。
「刑罰は国家による復讐の肩代わり」という神話 - on the ground
知識が必要?!
世の中全体が複雑化してくると法律知識に欠けた市民で構成されている社会は、もはや上手く動かないし、
個々人としても法律知識に欠けた人は、違法行為での炎上案件に見られるように、仕事や私生活でもつまずく危険が増える。
法律知識の不足は大きな問題の一部に過ぎない
もっともらしいことを言っているけど、現状は、法知識が不足した人たちばかりだけど、その多くの人は「違法行為の炎上」を起こしたりはしない。たぶん、法知識と関係なく、倫理や道徳、慣習などにより、どういうことは避けるべきだというものがあるからではないか?と思う。
また、法知識が無くても、啓もう活動しているよ。
xxxは違法行為なので辞めましょうとか、xxxxで逮捕されました(見せしめ効果?)とか・・・。
教育して知識を手に入れれば、理知的で教育されたとおりに行動するわけではない。
まあ、教育である程度洗脳することは可能だろうけど、その洗脳は「法律知識」でなくて、思想的なものなので、微妙に違うかと思う。
何がダメな行為かを知るのは、法知識ではないという話もある
自動車運転手らの悪質さは、教習所で道交法を習っているにも関わらず交通犯罪を繰り返すことと
速度超過等の暴走行為を言い訳にならない幼稚な言い分で正当化しようとする見苦しさ。
そして道交法通り車道を走る自転車を認められない自己中心的な考えが自動車運転手らの諸悪の根源だと言えます。
そして、自動車自体についての害についてももっと授業を充実させてほしいですね。
法律の授業をしたら、まず自動車運転手らの劣悪なモラルが知れますね
どの教習所も最低限の教育をしているはずだけど、危険運転する人があとを絶たない。
飲酒運転の罰則を強化すると、教育よりも効果があったりする現実もある。
車自体の害というのはあるとおもうけど、
自動車社会で、自動車産業が力をもつ状態では、害というか、気を付けないとダメですよてきな論調になるかと思う。
スポンサーリンク
コメントを残す