また、試行錯誤が無駄かどうかは、立ち位置によってもちがうということ。
車輪の再発明をする勇気
以前,若い人と話をしていたら何かを躊躇するような発言があって,聞いてみたら「それは車輪の再発明になっちゃう」ということを言っていた.どうやら,最近の若い人たちの間では車輪の再発明を極端に怖がるような流れになっているようだ.
再発明は特に学生にはいい訓練になる.常に新規性しか求められなければ,時代がすすむにつれて重箱の隅をつっつくようなことしか残ってない.そうすると,研究者や発明者にとって理想的な訓練になりにくい.それより,面白い発見がたくさん詰まっているような筋のよい発明なんかは,答えを隠して,発明者と同じような条件で発明の訓練をしてみるのがよい.いろんな困難を乗り越えるスキルが身に着くと思う.
第一,今の世の中にあるものだって,そんなに直線的に効率よく発明されてきたものではない.山のような無駄な発明があって,しかもいいものだけが淘汰されるわけでもなく,いろんな理由で今の世の中になっている.無駄な発明の一人に名を連ねるのはまったく恥ずかしいことではない.
もっと車輪の再発明をしよう - ビスケットのあれこれ
あまり人の仕様書や他人のソースばかり読みすぎると自分から若さが失われる。そして過去の事ばかり言って車輪の再発明をする勇気が無くなる。これはこれでやばい。だからどうという話ではないが、とりあえずまだ fsck が終わらない。
仕様もない話 - 言語ゲーム
僕自身は上手く言えませんが、若いころは無駄なことをすることが大切だと思う。
「車輪の再発明」で無駄だという発想は、年輩のものが、若者をうまく効率的に自身の「道具」として使おうという発想のもとにうまれた概念だと思います。でも、若者は「車輪の再発明」をしながら、経験をつまないと、新しいものを生み出すとか言う以前のところに固定される危険性があります。
「車輪の再発明」というのは一見無駄だけど、素地だとか基礎になるものだと思います。
ただ、仕事で「車輪の再発明」をやられると効率がわるいので、辞めさせたいというのは確かにあるとおもうけど、それは個人と集団?の利害関係が一致しないというだけのはなしで、個人にとって無駄かどうかは別の話になります。
つまりですね、会社は分業制なので、担当部分の知識だけで十分というのが効率的なんだけど、個人にとってそれはリスクにもなるという風なジレンマ的な効率なんです。
新しい物は、古いものから生み出されるという性質もある
今の日本には両方が欠けている。何かをやろうとしたら大抵前例があるため、ググれカスが世の中に浸透している。一から何かをやるのは効率的ではなく、前例を見つけ出してそれを実行する。それ以外は認めない風潮がある。
IT関連の仕事をしているが、この仕事でも新技術が使われることはほぼない。既存の技術、デザインも既存のもの、新しいものなんてリスキーなものには誰も手を出さない。どこかで見たことがあるシステムやサービスが世の中に溢れている。
自ら何かを生み出す気概、そこにかける気概
IT関連では、「新技術」といいながら、今まであった古い概念の焼直して新しい価値を付け加えたものが意外と多いことから、逆に「車輪の再発明」的な発想は大事かなと思う。
一定の価値観に傾倒しすぎるのは、リスクになるということ
「ムリ・ムダ・ムラ」を推し進めた会社は、体力がなくなって、逆に倒産しましたみたいなオチになるとか・・・。最適化されすぎて、若者が育たない、次の人材が育たない、新しいものが生まれないとかにもなりかねません。
後付論理で考えて、それらしい過去の事例を寄せ集めるのは簡単なんだけど
実際には、その時に直感でわからないと意味がない話で、
でも、周りの人たちがそう思っている中で、直感でわかるというのは非常に難しいので
リスク分散の意味で、1つの価値観に傾倒しすぎないという簡単な原理をどうにゅうするのが現実的かなと思う。
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