言動の一貫性もほどほどに
「言動の一貫性」はある程度は、重要な要素なんだと思うんですが、それを厳密さを求めたり、必要以上にその部分にこだわりだすと、たぶん、人間的に成長できないと思います。別に、人間的に成長する必要なんてサラサラないんですが、なんか論理矛盾探しゲームをしていると、高等な人になった気になって、自身が成長している、考えに深みを増していると錯覚しがちだと思います。
つまり、他人の悪行を非難したり、見つけたり、指摘したりする行為は、仮に社会に役に立つとしても、普通に善行を行っている人とは違うということです。
でも、なぜか、正義の味方だと勘違いし、それを善行だと思いがちなんですね。もちろん、善行なこともありますが、それは結果論であって、本来の善行ではあまりないんですね。
別に、他人がどういう考えで、ブログを書こうが、ブックマークしようが、まあ僕には(あまり)関係ないけど、「論理矛盾探しゲーム」とかに巻き込まれるのは嫌かなとは思う。まあ、ブログを書いているときに、論理矛盾をを探している?この人は、この部分を指摘(引用)しかねないな?とおもっていたら、実際そうしてたりするんですが、でも、そういう部分を排除していくと、内容が人間味がなくなるんですな・・。
いろいろな人々のいろいろな言動をつぶさに覚えておき、ちょっとでもその人の言動の一貫性が崩れると、「あのときああ言ってるじゃんw」といやらしく攻撃するのだ。
はてなブックマークに先生は要らない
とにかく正論をぶち、方法論(メソッド)を説き、人々を教え正そうとしている。
はてなブックマークに先生は要らない
そもそも文章のコミュニケーションというものはお互いの時制を一致させることが大原則である。
「あのときこう思ってたけど今はこうですよ」とお互いの最新の意見を交換するのが文章のコミュニケーションである。
お互いが「いつのことを喋っているのか」を一致させるのは大前提である。それを合わせなければコミュニケーションできないではないか。
はてなブックマークに先生は要らない
人間愛が無い
はてなブックマークに先生は要らない
批判したい場合も、新たに逆方向からの肯定として書いたほうがよいと思う
何かに従属した形(主-従)でなくて、主としてブログ記事を書いたほうがよいのでは?とかなり前から思っているのですが、なかなかそういう風には書けなかったりはします。選挙演説でも、相手を批判するだけでは、インテリ層の支持を得られても、そうでない層からの支持を得られない傾向にあるかと思います。どちらが、「主」として認められるか?という部分が大事なのかと思うわけです。
「こうしたい」というのと
「阻止したい」というのとでは、
根本的に、やはり違うんだと思います。
一貫性を大事にする人は、何年たっても変化がない
これをどう考えるかなんですね。もう完成されていたら、なにも変化がなくても問題ないような気がするんですが・・・・。
成長というのは、拡大(増大)していくということでなくて、変化することだと思います。
論理矛盾探しゲーム=人のあら捜し
極論かくとそういう感じ。「人のあら捜し」して得られるものは、成長でもないんでもないからです。
実際に、あら捜しをしてなくても、そういう記事を読んだり、そういう人と付き合っていたら、まあ、朱に染まってしまう可能性はあります。
論理矛盾のない人=清く正しい人みたいな感じで、「清く正しい」のに鼻につくという感じで、現実世界をみれば、論理的?(汗)に分かるでしょう。
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