「批判する人」って、まじダサい。/「批判される人」になろう
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20120306/1331042153
個人ブログは人(ブロガー)に興味を持つ
どうも個人ブログは、人(ブロガー)に興味を持つ人が読む傾向に高いように思う。記事の読まれ方にしても、引用先やトラックバック先はほとんど読まれない傾向にあるのもそのためだと思われる。だから、zenbackとかの関連記事からの誘導もそれほど多くは期待できないということでしょう。xxxさんの記事、xxxさんのブログという感じですね。こういう内容の記事、こういう内容のブログではないということなんです。
批判先がどこにあるのか?
人に対する批判なのか、それとも記事の内容に対するものなのか?という区別は簡単そうで実はそんなに簡単でないことに気づくでしょう。詐欺の手法が昔からそんなに変わらないのに、一部分だけが巧妙化しているように、ネット上の批判に関してもそのような傾向が見られます。もう、簡単な手法で何らかの悪意を見抜くのは不可能になりつつあります。
ソーシャル・ネットワーキング
人という存在をそのコンテンツよりも重要視している思想だと思う。引用先でも有名な人を批判するたとえ話をかいているが、意見に対して批判してるはずなのに、いつの間にか有名人に、そしていつの間にかそのフォロワーも批判という雰囲気になっている。それが人を主体と考える場合の批判だろうと思う。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い
原理的には、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」なのですが批判する人は無自覚なことが多く対応に困るパターンです。この場合は、何を言ってもダメなんですからね。確かに思想というのは人と関連づくことも多く、また1つの考えが気に入らなければそれに類する考えも気に入らないのは当然なので、結果としてその人自身が気に入らないのと、考えが気に入らないのと一致する可能性がありますが、それでもその両者を区別する努力が必要だと私は思います。
ただ、その努力をするメリットとか動機付けがないとできないものですので、現状を変えることはできないと思います。
人を批判する人は、マジ怖い
狂信的な感じだと・・・。信者が怖いなと思う人なら、その反対の狂信的な人も怖いなと考えると思うのですが、どうでしょうか?信仰というものは、本来その教えに対して行うものであると思うのですが、やはり偶像化された物や人の方が信仰しやすい傾向にあるような気がします。その程度ならよいのですが、いつの間にか信仰していた「教え」と違うことを言い出しても、物や人を信仰するようになってしまうために、そのことに気づかないという状態に陥りがちです。
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