殴りながら、俺の愛を感じろという人が結構いる気がする・・・

というか、冗談やノリ、ネタでなくて、ホントウに「愛」とか思ってる人がいそうで怖いなと思う。
もちろん「愛」の形はいろいろあるので、否定はできないけど・・・。

体罰という名の指導も、なんか本質はそういう感じな気がする。

世の中の普通としてはどうだかしらないけど、僕は絶対ご遠慮したいと思う。

「インテリのヤンキー化」と「ヤンキーのインテリ化」

もしかして、そういうのがヤンキー文化?

ヤンキーはどんなものか知らないけど、先生に殴られたことで、真っ当な人間になれたとかでそういう「物語」をたまにきくし、そういうのなんでしょうか?

打たれ弱い奴はブログとか辞めた方がいい

俺が自己主張する上で打たれ強さは必要だなと思うが、打たれ弱い奴はブログを辞めた方がいい。みたいなクソ声明をドヤ顔で提唱するバカが全員死ねば、もう少し俺が過ごしやすい社会になるんじゃないかなとは思う。
打たれ弱いやつから見える世界に関心があるやつだっている。

「打たれ弱い奴はブログとか辞めた方がいい」とかいうバカ

・マッチョイズム
・文化系的体育会系のノリ。

マッチョイズムの人は、マッチョなのに
現状を変えていこうということはあまり言わずに、現状をまず受け入れろという論理を展開する人が多いんです。

それは、その人が現状社会において、最適化されているので、現状を変えたくないという意識があるのかもしれないなとは思う。

問題点が明らかにあるのに、周りがわるい、社会がわるいというのはダメな考えだとか・・そういう感じなんですね。

周りがわるい、社会がわるいといっても、その問題は解決できるのか?的な、それも単に逃避してるだけなんじゃ?とかそういう具合に詰めていく気がする。でも、実際はそれは逆に視野が狭いと思わざるを得ない

老害

社会人としてやってはいけないという排斥運動で得するのはだれか?
若者は、「常識」「マナー」「礼儀」で叩かれた場合は、気にしてはいけません。

若者に、夢や希望をあたえるような助言(批判)ができない人は、もう「老害」だと思ってもよいとは個人的には思っている

あと若者は、年配者?の助言をあまり聞かないというのは昔からある話なんですが、実はそのほうがよいのでは?と最近思いだしています。

物分かりがよい、長いものに巻かれやすい若者ばかりだと、社会が活性化しない感じが・・・。

もちろん、「老害」的な発言をする人もある程度の数は世の中には必要だとは思う。


安易な結論に飛びつかず、葛藤するのもよいと思うよ

それが若者の本来の姿だと思う。

安易な結論にとびついて、悟った気持ちになって、広める人たちもいるので、そういうのにも飛びつくのはとりあえずは辞めたほうがよいとは思う。

責任?

ブログを公開する限り、そこには責任が生じるという論理なんですね。

しかしこの都合のよい論理は、そのことについて(つぶやきのような)コメントを書く人たちにも責任が生じるという論理はスルーされてることが多いわけです。

都合よく責任をつかって、自身の都合のよい論理を展開してるだけの可能性のほうが高い。

また、責任をどこまで問うべきか?という観点も抜けてると思う。

そもそも、責任とかそんなオーバーな話なのかさえも疑問の余地があるんだけど。

批判?

・創作する人
・感受性の強い人

そういう人は、意外と批判に弱い場合も多いとおもうけどな。

打たれ強くないとダメだとか、覚悟がないとダメだとは僕は思わないし、

もしそうだとしても、そういう人たちを排除してしまったら、そういう人たちの書き物?は絶滅するとおもうけどな。

いやいや、ダメだとは言ってないとかは、言葉遊びだと思う。

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