・発達障害を「本人が努力すれば治る」と思っている人間があまりにも多い…この現実や偏見に様々な意見 - Togetterまとめ発達障害を「本人が努力すれば治る」と思っている人間が、教師を含めあまりにも多い。治るんだったら障害ではない。もし病気と勘違いしてるのだとしても、病気だって努力して治るもんじゃないだろう。結局、心のどこかで「怠けている」と思っているのだ。この偏見は本当に根強い。
— 高橋裕行 (@herobridge) 2017年11月9日
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言葉遊びに近いんじゃないかなぁ?!
「怠けてない」と認識されても、出来てない事実は変らないのでは?
・努力すれば、問題を回避することが可能
・努力すれば、治る
たぶん、「発達障害が治る」なんて思っている人は実際にはいないのでは?
努力を強要されるという事実はあるかもしれないが、でも治るなんて思ってないと思うけどね。
・努力しても、問題を回避する方法を見つけられない人がいる
・努力しても、どんな方法でも、問題を回避できない人がいる
これも事実だとは思うけどね。
主張したいことはわかるんだけど、ちょっと乱暴すぎると思うんですね。
生まれつきの特性で、「病気」とは異なります
発達障害はいくつかのタイプに分類されており、自閉症、アスペルガー症候群、注意欠如・多動性障害(ADHD)、学習障害、チック障害などが含まれます。
これらは、生まれつき脳の一部の機能に障害があるという点が共通しています。同じ人に、いくつかのタイプの発達障害があることも珍しくなく、そのため、同じ障害がある人同士でもまったく似ていないように見えることがあります。個人差がとても大きいという点が、「発達障害」の特徴といえるかもしれません。
治療について
注意欠如・多動性障害(ADHD)
幼児期や児童期に診断された場合には、薬物療法と行動変容、そして生活環境の調整が行われることが多いです。薬物療法としては、脳を刺激する治療薬であるアトモキセチンや塩酸メチルフェニデートという薬がおもに用いられます。どちらも脳内の神経伝達物質であるノルアドレナリンやドーパミンの不足を改善する働きがあります。現在のところ、日本では成人のADHDの人が服用できる治療薬はありませんが、将来は成人への処方も認められる可能性があります。
発達障害|病名から知る|こころの病気を知る|メンタルヘルス|厚生労働省
でも、治療って項目があるけど、障害だったら治療とかないんですかね?
注意欠如・多動性障害(ADHD)は、治療薬があって一定の効果が認められてるように思うが・・。
軽減されても治らないというのは事実だろうけど、そんなの言葉遊びですよね。
発達障害だから免責されると思っている人間があまりにも多い
・周りが温かく理解してあげる・(すべての行動が)免責される
この2つは明確に違う。
でもって、求めてるのは、希望してるのは、「発達障害の正しい理解」なんですかね?
正しく理解しても、今までと言動が変わらない人も結構な数いるよ。
教育現場なら、
・発達障害の正しい対応・教育
で十分なのでは?
対応・教育のしかたが間違っていることを示すほうがよいと思うんだけど、たぶん現状でも間違ってないのでは?
発達障害を正しく理解してなくても、発達障害者の気持ち・親御さんの気持ちを把握できてなくても、教育というのは可能なのでは?
うつ病とかでも、医者でもない素人の人たちはたいてい間違って理解してますよね。
でも、対応を間違わないことはできるし、気持ちを察してあげることはできるのでは?
気持ちを察してあげるのは、会社とかではオプション扱いでは?
障害は個性です。障害は障害です。
これと同じだと思うんですね。障害は個性ですというときは、障害者として見てほしくないですというときで
障害は障害ですというときは、周りに援助してほしいときではないか?と思う。
結局、使い分けてるよね。
発達障害も程度問題や種類があるのに、みんないっしょくたんにして
軽度の発達障害者を前面に出す時と
重度の発達障害者を前面に出すときでは
主張する内容が変わってるよね。
そういう嘘っぽい論理の組み立ては、やめないと、偏見を助長するのでは?
そういう論理が受けいれられるのは、もともと理解ある人だけで、理解ある人たちがある意味m傲慢なんですよ。
正しく理解したら、こういう言動になるはずだとか
こういう言動をするのは、おかしいだろうと決めつけとか。
健常者でも、努力してもできないことでも、努力を強要されるよ
人間向き不向きがあるので、努力してもそんなに成果を出せない分野っていうのがあると思う。そういう分野でも、やっぱり結果しか見てもらえなくて、努力したとかそんなのは関係ない話だと思う。努力しているようにみえて、結果が芳しくない
努力をまったくしてなくて、結果が芳しくない
心情的にまだ許されるのは、努力をしているように見える場合だと思う。
適性ないから、どうせ無駄だからというのが事実でも、何の努力もしない人に、理解をしめせというのは厳しいと思うけどなぁ。
健常者は障害者でないからというのは事実だけど、
発達障害とかでも、線引きがあるわけで、グレーなところは、
・片方は発達障害者
・片方が健常者
となった倍に、その名前で、対応が区別されるの?っていうのを考えてみればよいと思うけど。
こういう時に、片方の健常者と、重度の発達障害者を比較して論理を組み立てるのはずるいと思うけど。
偏見ってなんですか?
発達障害者は、無条件で頑張っていると判断することは、偏見ではないのですか?つまり、都合の良い決めつけは問題ないとかいうのは、ダメだと思うけどなぁ。
親切には感謝しないといけないのは、普遍的な論理なのでは?
でもって、親切は強制されるものではないというのも、事実なんじゃ?・差別をしてはいけない
・平等にあつかわないといけない
この2つは微妙に違うよね。
具体性のある話で、議論しないと、煙に巻くことが可能ですよね
発達障害だから、努力する必要がないとは言ってないとか・・。でも、言ってるのに等しかったら、言ってるよね。
でも、努力したら治らないのに、なぜ努力をする必要があるの?っていう話になるよね。
治らないのに、なぜ努力をする必要があるの?っていう話になるよね。
でも、努力する必要はないとは言ってないのなら、努力させるんだよね。
努力することを免責されないし
結果についても免責されない
のでは?
・温かく見守ること
・免責される(なかったことになる)
とは意味合いがちがうと思うが・・。
努力を強要されるよ
怠けてるとおもってるから、強要されるのかもしれないけどでも、結局、強要されるんでは?
強要されない方法は、結果を出す以外にはないような。
学校教育なら、まあ、努力の方向を間違えないように示してあげるのがよいとは思うけど、
それって、健常者向けの教育でも、ちゃんとできてないよね。
どちらかというと精神論が前面で・・。
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