・チベットの人は、みな、心がきれい
まあ、ある程度はそういう表現はありだとおもうけど、
「全てのxxxが」みたいな感じで、主張している人たちは、罪深いと思う。
言葉に酔いすぎて、そういう一面もあるよという部分を超えてる人たちがいるわけです。
でもって、この手の話って、反論しにくいんで放置されるという悪循環が続くと思います。
実際には、心がキレイな人もいるけど、そうじゃない人もいるでしょう。
だって、それが人間なんだもん。
つまり、人間であることを否定してるんですよ。
まあ、言葉遊びは置いておいても、
実際、「心がキレイだ」というイメージ戦略で、啓蒙や理解が広まったとしても、嘘から始まった物事って、崩壊しやすいんですね。でもって、嘘が発覚すると、そこから今までのことはずべて否定されかねないってことです。
たとえば、xxxにひどい目にあった人たちがいて、それを公言に近い形で広まりだすと、嘘だというのが広まっていくわけです。その時に、信じてたものが崩れた時に、その人たちがどういう行動に変化するかなんですね。
天使のようだということを前提に、許容してた人は、許容できなくなるのは当然でしょう。
心がキレイの何が悪いのか?
「xxxは心が汚い」に置き換えたらダメな場合は、たいていダメだと思う。心は汚いはヘイト(悪意)だからだめで、心はキレイは善意だから良いなんて、そんな単純な話ではない。
心がキレイ、特別な才能があるとか・・・
なんか、そういうのがないと、認められない、許容できないという情報は、本当はダメなんだと思うんですね。犯罪者には人権なんてあるのか?
極論はダメだと思うんだけど、属性をいろいろつけないと、人権とか人間として認めないというは、どうなのかなぁと思う。
つまり、心キレイ、特殊な才能がある、人を感動させるとかで、人権のようなものをあおると
逆に、心が汚い、なんの才能もない、人を不快にさせるというものでは、人権を認められなくなると思う。
心がキレイとかそういうのがきっかけであっても良いとは思う
でも、もっと現実をみて、何かを肯定できないと、たぶん理想には近づかないのではないかなぁと思う。でもって、多くの人は理想なんて求めてないので、心がキレイとかそういうので心に訴えるんだと思うんだけど、でも、それで理想って実現できるんでしょうか?
納得できる論理が必要?!
・はてなブックマーク - 誰にも言えないので書く納得できる論理があって、xxxも生きる価値があるとか、xxxの人権も認められるべきとかいうのがあった場合に、納得できる論理が崩されたら、終ってしまう可能性があると思う。
・遺伝子の多様性のため
とかそういうのもあるけど、本当に多様性が必要なの?とか、必要でなくなった時は、排除しても良いの?って言う部分があると思う。
で、出生前診断で、中絶する人が多数いる現状では、そういう説得力も無駄だという現実があるんじゃないかなぁ。
でもって、「遺伝子の多様性」を担保に、なにかを守られると思っていた人たちは、急に、出生前診断で中絶するなんておかしいとか言い出すという矛盾を抱え込むことになると思う。
じゃぁ、中絶するという自由意志は、尊重されないの?とかで・・・。
後付け論理での補強は、もろいと思う
・後付け論理で強化できるのは、もともと賛同できる人のみ・後付け論理では、新規に賛同者を増やすことはできない
・後付け論理は強化のはずなのに、後付け論理が崩れると、強化した以上に崩壊する危険性もある
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