「本当の合理的配慮」と「そうでない要望の配慮」との区別は?
配慮でなくて、「合理的」というのがついた時点で、配慮に一定の制限がかかっているものだとは思う。
かつ、えこひいき的な特別扱いでないという解釈をすることもできると思う。
でも、配慮に一定の制限がかからないものは、えこひいき的になるとは思う。
かつ、えこひいき的な特別扱いでないという解釈をすることもできると思う。
でも、配慮に一定の制限がかからないものは、えこひいき的になるとは思う。
そういうやり方って、崩壊しやすいと思うけどね。
お互いさまと論理が通用しない世の中になり、
今度は、「合理的配慮」と言う名前で、一方的に我慢を強いる人たちが出てくるのは
どうなんでしょうかね?
まず、公平・平等という意識から「合理的配慮」が出てきているのに、
なぜか、一方的に我慢を強いる人たちがでてきて、
その人たちの「公平」とか「平等」とかはどうなるかって話ですね。
ほんの少数の人を多数で支える場合は、その理不尽さや我慢が分散されるために、そのあたりはなんとかなったりするけど、
40人のうちの一人のために、周りが我慢を強いるというのはどうかって話ですね。
論理を強化するつもりが、逆に論理に矛盾を抱え込んでいる
xxxxでも、優秀な人がいて、そういう人の可能性をつむのはダメな行為?!という論理があるのなら、
優秀というのがなかったら、可能性を摘むことにならないのでよいのか?って話ですよね。
xxxx認定されないバカな子供は、合理的配慮対象外とかいうのは、本来の意味での公平・平等なのか?なんですよ。
公平・平等という概念には、弱者への配慮という部分があるはずなのに、そういうのはスルーして、
ひたすら、xxxxに対する配慮促進にたいしてのみ、論理を強化していくので
結果として、多くの人の賛同を得られない状況になったりすると思う。
もちろん、弱者への配慮という意味での公平・平等には、強者に一方的に我慢を強いるという部分が当然ある。
でも、すべての弱者に対しての配慮という部分が、倫理的には受け入れやすいとは思う。
もちろん、合理的配慮をすることで、周りの優秀な人の可能性を摘むことは問題ないのか?っていうのはあるけど、まあその程度では、優秀な人の可能性を摘まないということなんでしょう。そうそう、私学とかそういうところにいくとか、塾とか家庭教師とかありますしね・・。でも、貧乏人の子は?、経済的弱者ですよね?
意識の高い論理は、啓蒙の最初のほうでしか受け入れられない
ある程度の啓もうがすみ、ある程度の配慮らしきものができた時点で、そういう「意識の高い論理」ってゴミになると思う。でもって、その「意識の高い論理」を言い続けると、今度は反感を買いかねないようになると思う。
それは、一方的に我慢する人たちがでてくるという現状に対してはなにも問題と考えず、またその人たちは必ずしも強者であるとは限らないという部分があるからだと思う。
優秀な人向けには、学校の先生は授業をしていない
逆に、馬鹿な子向けにも、学校の先生は授業をしていないスポンサーリンク
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