哀れみの屈辱を与えない「善意(真心)」にについて

  • 投稿 : 2015-12-27
さっき、ホームレスに千円あげてきた。
渡そうと思ったんだけど、断られたから、去り際にじっちゃんの荷物の端に丸めてさしてきた。

じっちゃん、いい人で、僕があげようと思ったらすごい勢いで断るんだ。
「いいですいいです!なんとか食える分はありますので!」
「気持ちだけ受けとらせていただきますっ」
って、両手を合わせながら。


僕は自分の心の満足のために、それが本当に何を意味するかなど深く考えることなく、じっちゃんに千円あげてきた。
じっちゃんにとっては迷惑だったかも知れない。ないと思うけど、こんな若者に、、って情けなく思わせてしまったかもしれない。

ただ、あのじっちゃんなら、それで自分のためには使わないとしても、他人のためにその千円を使ってくれると思うんだ。
僕にできること

・正解にこだわっていたら、行動できない
・行動した結果、まちがってても、それを訂正・改善していけばよい
・言動というのは一連のつながりなので、一部だけ切り離して評価してはいけない

「じっちゃん」の断り方をみれば、よくわかるのでは?
つまりですね、何らかの理由があって受け取りたくないとしても、相手の善意を踏みにじるようなことをしていないですよね。

頭だけで考えていたら、やらない理由しか思いつかない

僕にできること

増田がホームレスの立場ならどうだろう。知らない兄ちゃんからいきなり千円渡されたら増田はありがたく頂くか、俺は物乞いするほど落ちぶれちゃいねえとキレるか?善意は受ける側の負担もあるんだと知ってほしい。

2015/12/27 09:14

「じっちゃん」は、キレてないよね。
まあ、たまにキレる人もいるけど、本心(真心)がわかれば、たいていは怒りの矛先をおろすよ。
本心(真心)をわかってもらえる努力が必要なだけなのかもという簡単な話の場合も多いよ。

僕にできること

ホームレスでなくとも、人から哀れみの目で見られるのは屈辱的なことですよ

2015/12/27 09:56

「哀れみ」と「やさしさ」は紙一重なんで
「やさしさ」さえも、哀れみにすりかえることは可能だと思う。


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