1.負ける勝負をしない、勝てる土俵で戦う
苦手なことにチャレンジして、勝つことが目的で無くて、あくまで、確実に自己肯定感を高めるのが目的ですからね。不利な土俵で戦っても勝てることはまずなくて、もしかてるのなら今頃は自己肯定感が薄いなんて悩みは無いでしょう。
一度でもそういうことがあると、人な自己肯定感を持ちやすく、かつ過去の出来事なのにいつまでもそれに執着するほど、効果があります。
効果があるけど、確率が低いと言うことで、宝くじを買うようなものです。
それよりかは、地道に勝てる土俵で勝負するのがいいわけです。
2.自分より下だと思っている人を意識しない
下をみて、自己肯定感をモテる人なら、こんな文章を読んでないと思うというのが主な理由。人を見下げて、自己肯定感をもつということも理論上は可能だけど、そういうのに向いている人、向いてない人がいて、向いてない人はそんなことはしない方がイイでしょうって話です。
オマケに、下をみることで、自己肯定感が高まるどころか、逆に下がりまくる場合が多いので、ますますよろしく路線になります。
他人との評価で自己肯定感を得ないというのも一つの解決策ですが、それは理想論であって、そんなこと思えるのなら苦労しないでしょう。
どうしても周りとの比較をしたいのなら、自分と同程度の人たちに意識を向けた方がよいかと思います。
これは意外と有効な人が多くて、同じランクだと思っているので、比較して自分の方が優れていると思うと、自己肯定される場合が多いんですね。
3.人生に自分なりの楽しみを見つける
自己肯定感とか承認欲とか、そんな抽象的な話を忘れることです。人生とはなにかとか、生きる意味はなにかとか、そんな高尚なことは忘れることです。
哲学者や宗教家とかでない限り、そんなことを考えても、人生が豊かになることはまずないでしょう。
確かに人生が豊かになったという人もいるでしょうが、それは後付論理です。
そんなことを言ってるけど、現状は悲惨でみるのもいたたまれないなんて言う人はいるでしょうか?
たしかに、いたたまれない人はいるけど、それは見る側の価値観のはなしで、当人はそうは思っていないでしょう。
4.悲劇の主人公(ヒロイン)のように、自己陶酔しない
自己陶酔することで、自己肯定感を得られる人もいるけど、そういう人以外はやめたほうがよいということですね。ポジティブ教じゃないけど、ネガティブな思考に支配されると、現実の認識がどんどんネガティブな方向に向かって行きます。
希望を持てないということは、自己肯定感を薄くします。
本気だせば、この程度はできると思っていたほうが、自己肯定感が高いわけです。
実際に、出来なくても問題ないし、出来なかったときは、運が悪かっただとか思えば済むでしょう。
あくまで「例えば」なんで、自己の価値観に合うように変換してください。
5.自身の欲望を素直に認める
自己肯定感が低いから云々で無くて、実際には、まわりからチヤホヤされたいという話だったら
素直に、そのことを認めてしまう方がよいかと思う。
チヤホヤされたいのに、他の自己肯定感が高める方法論をとってもたぶん満足できることはあまりないだろうと思う。
つまり、チヤホヤされたいのなら、
チヤホヤされそうなところで、勝負するほうが賢いんです。
ネット弁慶とか揶揄されても、ネット上でチヤホヤされれば、自己肯定感の一部も満足できるでしょう。
仕事でも、ちょっとした重要なものを握れば、周りは仕方がなく、チヤホヤしてくれたりもしますよ。
あくまで例であって、本当の望みに気づくのは解決方法を探し出す一番手堅い方法だと思う。
また、思考のしがらみから解放もされるので、行動もしやすくなると思う。
厚顔無恥な方が、行動しやすいし、結果も出しやすいわけですな。
生きる価値についての2つの立場
自分から見ると、価値のない人っていっぱいいる。
その仕事の出来なさでよく生きていけるな。
その容姿でよく恋愛できるな。
その体型で生きてて恥ずかしくないの。
その財力でよく人前に出られるな。
あの人たちはなんで平気な顔をして生きていけるのだろう。
生きる価値のない私以下の価値の人たち、なんで死なないの?
自己肯定感が薄い
仕事出来なくても、給料さえもらえれば、生きていけるけどね。
あと仕事できないからこそ、周りからあれこれ言われても、いまの職場にしがみついてなきゃというのもあるとは思う。
恋愛は容姿でするもんじゃないしね。ただ相手には容姿を求める人が多いってだけ。
で、容姿なんて気にしてたら恋愛なんてできないよっていう単純な話かと思う
極論、恥ずかしくても生きていけるって話だと思うが・・。
恥かしくて生きていけないとかいってるけど、
実際には、死なないんだったら、
開き直って、いろいろ楽しんだほうがお得な気はするけどなぁ。
あと生きる価値ってなんでしょうね?
まわりから、優れていると思われることなのか?
それとも自身の人生をいかに楽しめると言うことなのか?
の2つの視点があると思う。
平気な人って、人生を楽しむことが、生きる価値があることだと認識してるんじゃないの?
全ての人がそうじゃないとおもうけど、まあそういう人もいるって話で・・。
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