毒親自慢
僕自身は、「毒親」という言葉があまり好きじゃないしまた、「毒親」自慢している人たちをみると、
仕事の不健康自慢をしている人たちを見る感じで、微妙感が漂うのですが・・。
仕事の長時間残業でも、本当に嫌で困っている人もたくさんいるわけですが、
同じような話をしながら、不健康自慢の人も少数でもいるという話だけです。
そういうのがあるのなら、毒親だってあるんじゃないの?という類推もできるかなぁと。
・不健康自慢
・不幸せ自慢
・不遇自慢
・独親自慢
不幸なことを自慢する人なんていないよっていうのは、頭だけで考えたはなしで、実際にはそうじゃないと思う。
今時は少ないけど、
仕事の不健康自慢とか見てたら、
十分自己肯定されてるから。
立派すぎる親は、子供にとって毒になることもある
あるシングルマザーのお母さん。自分が一生懸命働いていても生きていくのがつらい。それまで子どもの前で気丈に振る舞っていたのに,ついに子ども前でお母さんは辛いと泣いてしまったそうです。そうしたら子どもが「私も…」と背中を見せました。そこには鉛筆で刺された無数の傷の跡があったそうです。一部は膿んでいました。どうやら後ろの席の子に毎日鉛筆で刺されていたようです。
親が弱音を吐けるから子供も弱音が吐けるんだよという話 - いつか朝日が昇るまで
毒親の場合は、
以下に、親が立派でなかったかを延々と根拠に挙げていくわけですが、
立派でないことと毒とは直接関係ないこともあるんですね。
立派すぎるのも子供にとっては毒になるわけです。
教育員会推奨の親とか
文部省推奨の親とか
がいるとしたら、
そんな親の子供になったら、良き苦しい人ほとんどじゃないでしょうか?
親は、「ダメさ」も子供の為に示さないとダメなのかも
重要なのは、その「ダメさ」にどう立ち向かったか?どう対応したのか?を見せることが親の背中をみせることにつながろうかと思う。
その「ダメさ」を許容して、平凡?な人生を歩んでいるとかでも問題ないわけです。
べつに、立ち向かうだけが子供に見せるべきお手本ではないわけです。
まあ、反面教師にする場合もあるとはおもうけど、
人生に躓いたときに、理不尽なことを許容して、流されることも大事ななのかなぁというのに
大人になって気づくかもしれません。
立ち向かうばかりを見ていたら、
頑張って立ち向かって、過労死という結果を招くかもしれません。
「前向きとかポジティブ教」の人もどうかなぁとおもうんですなぁ。
「頑張る教」と変わらない気が・・・。
りっぱな人のお手本なんて、実はあまりいらないのでは?
実物いなくても、そういう語がたくさんあるわけだし・・・。意地悪いうと・・・
毒親自慢の人は、なんでもかんでも他人のせいにするというところは、
毒親とそっくりなんじゃないの?と思う。
いやいや、自分が悪いとおもって責めていたところに
毒親が悪いと思って救われたんだよというのはあるのかもとはおもうけど、
責める対象が、自分で無くて、親に変わっただけで、
その体質は変わってない気がするんですね。
パチンコ依存だったけど、
買い物依存になって、パチンコ依存からは救われましたっていう感じで。
なかなか、その区別は難しいし、
困った人を救うという意味では、そんな区別しても仕方がないんだけど
なんか、違うかなぁという思いが強いんですね。
うつ病で苦しんでいる人と、
なんか気分がプチうつでつらいんです(ハート)みたいなのとは。
まあ、助ける気がなければ、スルーしてたらいいだけで、
不快に感じるからといって、嫌悪感をあらわにする必要はないのかもしれないけどね。
スポンサーリンク
コメントを残す