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人から攻撃?されたときに、悪くないということを主張したいがために、落ち度自体も認めないという結果になりがちだから。
私は悪くないが、落ち度はあったかもしれない
・法的に責任はないが、道義的には責任があるかもしれない
・私は悪くないが、落ち度はあったかもしれない
・私は悪くないが、気遣いが足りなかったかもしれない
・私は悪くないが、落ち度はあったかもしれない
・私は悪くないが、気遣いが足りなかったかもしれない
気遣いが足りなかったんじゃないかな?というと、私は悪くないし悪くないほうが気を使うなんておかしいじゃないか?と反論。
落ち度があったんじゃないの?というと、私は悪くないしそもそも悪いのは犯罪行為を犯したアイツだ!!と反論。
「私(彼・彼女)は悪くない」という意味合いが、どういう意味で「悪くない」のかというのが消え去って、子供じみた思考になってる気がしなくはないんですね。
海外で、窃盗(スリ)に合えば、治安が悪いのが分かっているのに日本と同じ行動をするからだと言われるわけですが、
もちろんこの場合でも、悪いのは窃盗(スリ)を行った側であるわけですが、同時に「日本と同じ行動をしたことも悪い」ということになります。
この「悪い」という表現は、同じ悪いだけど、意味することが違うんじゃないの?というのを無視して、なにかを言い出したりしないですよね?
まあ、中には、「責任ある」「悪い」という意味合いを誤解して言っている人もいるとは思うけど・・・・
※
窃盗(スリ)が、レイプとかに置き換えると、そのあたりが顕著に表れるとおもうよ。
ただし、論理上はそうでも、デリカシー(心配り)みたいなものは表現には必要だと思う。
この場合でも、デリカシー(心配り)のなさの批判は、別の批判にすりかえると話はおかしな方向に行きそうだと思う。
その場合でも、悪意をもってそういう風にしてたら、怖いなとは思う(^^)
私は悪くはない
たぶんね、「私(彼・彼女)は悪くない」という部分を少しでも否定することを許容できない人には、言い方を気を付けないとダメだということなのかも。まあ、実際問題、社会問題とかそんな大きな話で考えずに、個人体験に過ぎないと思えば、
そうだね、あなたは何も悪くないのに、相手の人はひどい人だねというので終わる気はする。
ただし、「私は悪くない」というのを強く訴えたいときに、社会問題的な書き方にすれば、同意を得られないときは、なぜか「私は悪くない」という部分が正しくても、その部分さえも否定(部分否定)される傾向にはあるかと思う。
私も悪いが、相手はもっと悪い
そういう状況もありえるとは思う。強者のナイフと弱者の刃
日本では女性はいつまでも被害者であり、加害者扱いをされることはないのだ。強者のナイフには敏感だけど
男性が悪いことをした場合には、それは男性の自由意思であり、男性の心が汚いからであるが、
女性が悪いことをした場合には、それは社会のシステムの問題であり、心の綺麗な女性が悪事をむりやりさせられたのだ、となるのだ。
男性は被害者たりえるし、女性は加害者たりえる
弱者の刃には、意外と世間は鈍感だということのような気がする。
僕自身は、弱者側の批判をあまりしたくはないけど、そういう一面はあることは知っておいたほうが良いとは思う。
そういうのを知っていないと、一部の弱者擁護?をしているうちに、落とし穴にはめられて、擁護しているつもりがいつも間にか、多くの弱者を陥れる結果になりかねないと思う。
強者が使う手に、こういう不正?を犯す弱者がいるということを上げて、自身の批判をそっちに向けたりするという手法があったりする。
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