かけ湯は、他人のことを考えてますよという意味合いが強いと思う。

  • 投稿 : 2013-11-29
実は、私も意味あるのかな?と思っていて、書いてみたら、意外と自己納得できた(^^;
異議を申し立てる人は、特に合理的な根拠を付けてる場合は、かなり、協調性がない傾向にあるかと思う。

かけ湯と似たものに、タオルを湯船につけないというのもあります。
ホントウに意味あるの?と、どういう意味があるから従うべきか?ですね。


ていうかあの「かけ湯」って行為なんなの?
そもそも体にお湯かけた程度じゃ汚れは落ちないだろ。
それをしなかったから汚いとか非科学的にも程がある
かけ湯しろと注意された
逆に、体を洗ってからとか、シャワーを浴びてからとか言われないのはなぜか?という部分にもつながっていると思う。「かけ湯」の真似事だけしてれば、とりあえずは許容されるケースがほとんど。

実際には、お湯をかけた程度でも、かなり汚れは落ちる。実際に検証してみればよいかと思う。

湯船(汚い)に入る→毛穴開く→洗い場で体を洗う
が一番効率的だと思う。
かけ湯して当たり前とかいう認識はおかしい。
かけ湯しろと注意された
湯船が汚いというのが事実であっても、汚す行為を正当化しようとする人は、共同で使用するものは使ってほしくないというのが、社会一般の暗黙のルールだからだと思う。

効率的だというのは、個人にとっては効率的だけで、集団全体にとって合理的かどうかは不明。


キレイか汚いか?の2つの状態しかないわけではない

その間が100段階だとして、1段階下がる行為が、ダメかどうかと、その1段階下がる行為が50回行われれば、50段階さがるということを忘れがちかと思う。

それは、共同で利用するという意識が低い人は気づきにくい。1回ぐらいはイイだろう?という意識が、モラルハザードになり、大概はもっと悪い状態になっていく。

納得できないのなら、利用規約?を見ましょう

・かけ湯かシャワーで、汚れを落としてから入浴してください
・タオルや髪を、湯船につけないでください

最近は、「なぜ?」というのに納得できないと実行しない人が多いので、明示的に利用規約みたいなものが書かれています。
これに従えない場合は、利用しないでくださいということです。

科学的根拠も、合理的かどうかも関係ありません。利用規約が優先されます。

昔はたぶん髪の毛関係はうるさくなかった気がするけど、最近はプールでも水泳キャップをしない状態では、頭を水につけてはいけないことになってるかと思います。

汚いかどうかよりも、清掃とかのコストがバカにならないからだと思う。

衛生よりも、掃除のコストとかもあるのかも。タオルなんかも、理論上はつけないほうが衛生的であるけど、どの程度汚れるか?という話で納得できない人がいるが、繊維くずとかは衛生に問題なくても、掃除コストがかかるという点があるかと思う。

ここでも、キレイの概念が違うわけです。
「衛生的な糸くず」が浮いている状態が、キレイかどうかです。

科学的な理由はあるの?

以下はタオルの例だけど、汚れた体も似たようなものだと思う。

浴槽の表面が静かなところで、体を洗ったあとよくゆすいだタオルや、前日使ったタオルを、浴槽の中でもんでみると細かい石鹸カスが浮かび上がって来ることが多いですね。

お湯の表面に石鹸カスが浮いているので水面下のろ過装置の吸い込み口から吸い込んでくれません。

タオルをつける人が必ず何人かはいるので、対策として、浴槽につかったらお湯があふれるように水位設定をするのです。
でも、浴槽の手前半分に浮いた石鹸カスや髪の毛はだんだん流れてくれますが、壁際や隣の浴槽などの方にあるのはいつまでも残るので、なかなかうまくいきません。
銭湯マナー:タオルを湯船に浸けない理由は?
体を洗っていない清潔なタオルであればよいのでは、と思うのですが、前回に体をあらったあとゆすいで乾かした、程度ではダメのようです。

体を洗った後、タオルを充分にゆすいでも、やはり、石鹸でくるまれた垢や油が残ります。前回使った乾燥したタオルは、清潔で大丈夫そうに見えますが、再度お湯につけると、大量のお湯に薄められる広い浴槽では、垢のような残渣がお湯の表面に浮いてきます(実験ずみ)。
銭湯マナー:タオルを湯船に浸けない理由は?
お風呂屋さん(銭湯屋さん)が書いているみたいです。
実際、汚れいているし、コスト高?の原因にもなってそうな感じですね。

世の中は、科学・合理的でもない場合のほうが実は多い

非合理的だから従わないとか、非科学的だから従わないというのは、正当化できる場合とできない場合がある。

そういうのが正当化できる場合は、従うことで非常に個人的負担が大きい場合だけだと考えたほうがよい。

ちょっと面倒程度では、ダメだということ。
意味がなくても、従うべきものはあるかもしれないということ。


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