「保護者の方々からの要望であるならば、(『占いコーナー』を)直ちに止めるつもりではあります。しかし私の今の能力では、このやり方以外に学級崩壊を抑制する方法を思いつきませんでした。ですので、止めれば再び学級崩壊状態が再発する可能性は高いです。それでも良いというのであれば明日からでも止める事をお約束します。ですが、『占いコーナー』以外の方法で学級崩壊状態を何とかしろというのであれば、申し訳ありませんが私の能力を越えていますので、私より有能な先生に担任を交代する事を提案致します。」
担任のこの「宣言」以来、保護者間でこの話題はタブーになっている。『占いコーナー』は続いているという
https://anond.hatelabo.jp/20100921010110
道徳や規律は、科学とは関係ない
科学的に正しいことと、道徳や規律、倫理とか直接関係ないんですだから、その分野において、逆に科学的なものを持ち込んでもダメなんです。たとえば、受精後?か月は、まだ人間だといえないから、殺人でないとかいう概念は、(たぶん)倫理ではないわけです。
人は納得できる論理をどこかで求めています。しかし、道徳や倫理というものは、論理的であるかさえも不明なんです。
一番大事なのは、科学でないものを科学であるといってはいけないだけ
「科学っぽいな」と「科学である」とは全然違います。また、その「科学」という用語が指し示すもの自体も違うわけです。似非科学批判を「強烈」に行う人たちは、どうも、世の中の常識(認められている矛盾)や言葉のあいまいさを無視してることが多いように思います。逆にいうと、あまりにも論理的過ぎるので、ダメなんです。
小学校とかで、理科の時間に科学でないものを科学であるかのように教えるのは不味いというのはだれもが感じるところだと思います。
ただ、理科の時間以外に科学でないものをが「科学っぽい」話として聞かせるのはどうかという話です。また、実際には、小学校の教育要綱では、教科の区別なく情緒や道徳などを教育することなっているので、教科別に考えるというのも、実際は難しいわけです。
社会の時間に、道徳っぽいものを教えてもよいか?というとあまりこのことに異議を申し立てる人はいないかと思います。たとえば、社会の時間で、歴史の話から愛国心を持たせるとかです。それはなぜか?ということです。
サンタクロースは良くて、何で疑似科学は駄目なの?
「良い子にしないとサンタさんこないよ」と教えるのは
https://anond.hatelabo.jp/20121224142715
科学かどうかを区別させることが大事であって、排除するのが大事ではないという考え方もある
中学生の理科授業では、たしか、何を科学というかをきちんと指導していたと思う。もともと小学生には、区別が難しいと思う。太陽をみて、火が燃えてるとかいっても、それは科学なのかそうでないかというのは難しんじゃないかな?
科学だから信じられる、科学でないから信じられない?!
信じることと科学かどうかは別なんです。疑似科学批判の人は科学大好きっこなので、科学以外なものが大嫌いなだけかも。
科学的に正しいことでも、その結果で不幸になってる人たちも当然いますよ。
「菅家さんが犯人でないことを如実に示した」。足利事件の再審で宇都宮地裁は、DNA型再鑑定の結果を信頼し、菅家利和さん(63)に無罪を言い渡した。一方、1991年に逮捕の決め手となった警察庁科学警察研究所のDNA型鑑定(旧鑑定)については「科学的に信頼できる方法で行われたとは認められない」と断じ、証拠能力を否定。菅家さんが旧鑑定の呪縛(じゅばく)から解放された瞬間だった。科学的に正しい場合で、後で間違っていた場合は、逃げ道的な言い訳が存在するので・・・。
◎ ◎
再審公判では、検察、弁護側それぞれの再鑑定人が、「MCT118法」と呼ばれる方法で行われた旧鑑定について「判定しにくい」「完全な失敗」と証言した。判決は、全国の警察で一般的に使われている最新の「STR法」を使った検察側の再鑑定結果を「信用できる」として採用した。
精度の高まったDNA型鑑定は捜査における強力な武器だが、押田茂実・日大教授(法医学)は「妄信は禁物だ」と警鐘を鳴らす。太陽光などの影響で試料が変質したり、複数の人物の試料が混ざったりして、15か所のうち鑑定できない個所がある場合、残りすべてが一致しても「同一人物」とは断定できない。「あくまで証拠の一つという認識が大切」と押田教授は力説する。
科学は信じるものではないのだが、科学大好きっことか似非科学を強烈に批判する人たちは、はっきり言って「信じている」とみなされてもおかしくない場合が多い。
あいかわらず、このブログの人、変なんじゃ?
表現が上手くない、書き方がうまくないだけだと思ってますが、実際ちょっとダメな思考かもしれません。ただ、科学を信頼するということと、科学を信じるというのは別だし、科学的結果をどう判断するか、どういう基準に利用するかは、科学とは別の倫理やコストなどの別の価値観も関与しているということを忘れてはなりません。
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