客観的で論理的であることが、幸せにつながると思っていた

その時のやり方は、あやふやで歴史物以外はソースを重視せず、要するに感性のタガを外すことによってその隙間から創作物が生まれて来る感覚だった。
要するに、表面的なことをことさら論って暴いてゆく思考ではなく、謎を謎のままとして楽しんだり、不可解を気味悪がったりする感情的な脳といってもいい。
いつからかなぜこんなに乾燥するようになったのだろうと思い返した。
2chで論理武装したり、はてなで論理武装したりする内にそうなっていったような気がする。


感動は理由づけした時点で死に絶える。批評は大事だが、それは二次的生産物であって一時的なものは誰にも説明できない。絵でも小説でも、作者すら踏み込めない時がある。
人が浅くなるのは、目に見えない可能性を潰して回っているからだろう。全部理論的に何一つ矛盾なく説明できるSFは突飛さがなくつまらないだけだし、予測不能の事態が起こらない歴史物はあくびが出る。

はてな脳
web.archive.org:はてな脳

客観的で論理的であることが、幸せにつながると思っていた

偏見も差別も、客観的で論理的でないから起こるものだと思っていた。しかし、「客観的で論理的」でも、偏見も差別も生まれていく。
まあ、「客観的で論理的であること」は、現実世界の生活においては、幸せにつながるどころか、不幸につながることのほうが多いと思う。

何を大切にしたほうが「幸せ」を感じるかといえば、それは「感情」では?

客観的で論理的という名の言語化の限界

言語化しないで考える癖をつけると思考が深まる

言語化すると、情報がたぶん失われる
でもって、それを客観的で論理的に表現しようとすると、さらに情報が失われる

失われた情報?が有益なものかどうかは不明だけど、かなりの部分の情報がその作業によって失われていくと思ったほうがよい。

また、言語化して、それを客観的で論理的な思考にして、納得した時点で、「処理済み」という意識が働いて、そこからあまり発展しない傾向にあるのもたしかだと思う。

「葛藤」がない人に、何らかの変化があることはあり得ない。
「さとり」といえば聞こえがよいが、多くの場合は、停止や固定を意味して、人間らしさを失う。

人間らしさを失うという表現が嫌いなら、神格化するでもいいけど・・・。

はてな脳

客観的で論理的だけど、一般化されすぎて、逆に意味を持たないという現象をよく見かけるが、それこそが「情報」が抜け落ちた結果だとみることもできる。

まあ、ごく一部には、学問的に意味を持つところまで行く場合もあるけど、そんなのは読むだけでも難解で理解できないので、人気記事?には上がってこない。

客観的で論理的は、説得には向くのか?

これは、相手が「客観的で論理的」であることが好きな場合は、説得に向くと思う。しかし、「客観的で論理的」文化圏の人は、他の人もそうであると思い込んで、説得にその手法を使おうとするが、多くの場合失敗する。

納得には結構有効ではある。それは、自身に対して行う作業だから、心地よい論理を作りやすいからです。

スピチュアルな文化圏の人が、ほかの人もそうであると思って、スピチュアルな手法で説得しようとするのを考えてみれば、状況がよくわかると思う。

しかし、論理と感情では、感情で訴えたほうが説得はしやすいと思う。
論理よりも、感情のほうが、共感しやすいというのがその理由だと思う。


論理的・客観的だと、思い込み

・仕事ができる人がする朝の7つの習慣
・幸せになる人がする7つの口癖

これ、書き方が違うだけで中身はあまり変わらないんだけど、
一方は論理・客観でビジネスマン?に、一方はスピチュアル?で女性にとかになりがちだけど・・・。

いやいや、習慣をまねるだけで、仕事ができるようになると考えるのと、幸せになるとか恋愛がうまくいくとかと、どの程度違うのか?



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