「方向を間違えた善意」が心配で、善行が行えないジレンマ

  • 投稿 : 2013-11-13
善いことをしようと思うと面倒くさい。もっともっと簡単に善いことを実行すればいいんだろうが、人を傷つけることになる。方向を間違えた善意ってやつ。厄介。
事故なんだから多目に見たいんだけど、腹立つよね。善いことだと思ってしたことが人生狂わせるんだぜ?おお、怖い。善意で人を殺せるよ。
すべての行いに責任を持つことなんて出来ない。そんなことしてたら何回腹切ればいいんですか。この世は方向を間違えた善意だらけですよ。方向を間違えないように慎重に行動しても間違えるよ。めんどくせ。
善がわからない - 反社会的な中学生
たぶん、善とはなにか?ということを悩んでるのでなくて、人とはどう付き合えばよいか?を悩んでるケースのような気がする。

・善意は持つことが重要
・行動は1回の結果でなくて、連続する複数の結果によっても評価することもできる

方向性を間違えたら、軌道修正して次の行動を起こせばよいのです。

「ごめんなさい」という便利な言葉もあるではないですか?

よいことを実践しようとして、ちょっと方向性を間違えても、ごめんなさいといえば問題ないことのほうが多いんすよ。

あと、どんなものでも試行錯誤して練習しない限りうまくならない。試行錯誤しているときに周りに迷惑をかけることは多々ある.

他人の善意を確認するのは難しいけど、善意を持った人が方向性を間違ったときに、その関連の行動として次起こす行動などをみていれば、気づきにくい善意にも気づけるんじゃないか?と思う。

正しさを判断できるよりも、気づきにくい善意に気づけるほうが、人生楽しいんじゃないかな?と思う

悪意にばかり敏感で、善意に気づけない人が多いのかな?と思う

僕も同じことを悩んでいたことがあった気がする

あまりにも正しくあろうと思うと、逆に他人にたいして暴力的になりかねないという矛盾を抱えてしまうことも多々あるかと思う。

正しさの鎖に繋がれると、幸せになれない 【正しさの正しくなさ】
逃げを認められないのは、コミュニケーション下手に多い

無限ループする思考には、ブレイクスルーが必要

たとえば、「善意」と「善」は違いますとか、本当に些細で簡単なことでも、無限ループから抜け出せる人もいる。

善を定義できないと、「善意」を定義できないなんてことはなく、また「善意」を定義できないからと言って、世の中にある「善意」がなくなるわけでもない。


自己肯定する方法は、実は難しい

だれも答えられない要素が入ってしまっている。神のみぞしるってやつやね
善がわからない - 反社会的な中学生
信仰心のない人の弱さについて

相対的なものを、相対的なものをゆかって、肯定する方法が難しい。

それが故に、論理的な正しさを構築しようとか、絶対的なものを基準として採用しようとか、過去の人たちや、現代の多くの人たちは、無意識にでも悩んできたわけです。

論理的な正しさなんて、生きる・人間関係構築の上では、あまり意味がない

「やらない善よりやる偽善」

なんか一時期流行った感じだけど、こういうのはすぐに反論とかあって、無限ループに戻されることが多々ある。

言葉の意味が大事でなくて、行動をできる論理(要は開き直り)が大事だということに気づかない人たちは、無限ループし続けると思う。

もちろん、善がわからないから、できるだけ人と関わらないように、ひっそりと生きるということでも、問題ないわけです。


スポンサーリンク