議論は「言葉の定義が大切だ」という幻想

たとえばさ。「神はいるか」という問題に対して、「それは『神』という言葉をどう定義するかによるね」と答えるのが、前期ヴィトゲンシュタイン。そして、「万能で超自然的で創造主で…」と答える人に対して、「万能」と定義するなら「存在」もできるということだ。従って、「万能」と定義した上で「いるかいないか」議論するのは、トートロジーだ、とか、まあそういう批判をしちゃうだろう。


対して、後期ヴィトゲンシュタインなら、「神はいるか」と質問する人に、「あなたは『神』という言葉をどのように用いているのか」と質問するだろう。「『神』という概念で、あなたはどのようなゲームをするのか、そのゲームはどのような性質のものか?有益か、無害か?」…etc。(後期の哲学を書いた頃、彼は「宗教とは、一つの生活の形式のことだ。」「信仰は、言語ゲームに似ている」と述べています。)
一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。

議論をしているときに、意味を尋ねるという論法がある。
相手の言葉の意味がはっきりと分からないときっちりした議論が進められないからだ。


て、僕はここまで来て、問うことができる。
「それどういう意味?」
レベル1状態に戻ってこれたわけだ。

無限ループって怖くね?
「それどういう意味?」→「定義は?」→「言語ゲームにより無意味」→「言語は文化が作るもの」→「それどういう意味?」

日常生活、ネット内では、たいていの場合、議論において、言葉の定義を持ち出す人がでてくると、その議論は収束しない傾向にあるかと思う。それはなぜか?なのかな?と思います。

議論の目的にもよりますが、収束傾向にあるのは、以下の2要素がある場合のみだと思います。
1.相手を理解しようという努力がある
2.ある一定の妥協点で収束させようという意思がある

議論しても意味あるかどうかというよりも、気持ちよく終われるかどうかを判断するのに使えるかと思います。

言葉の定義を持ち出す人たちは、多くの場合、相手を理解しようとしないんですね。相手が間違っていることの指摘、相手の論理を否定することを目的としていることが多いからです。


「言葉の定義が大切だ」という意味

単に、育った環境や文化が違えば、その言葉の定義も違う可能性があるということを、心にとどめましょうという意味合いのほうが強いと思う。そういう発想は、相手を理解しようと思うときに、初めて出てくる発想なのです。

相手を理解しようということは、そこに「正しい」「間違っている」という概念を超えたところにあるのです。

逆に言うと、どういう条件なら「正しい」といえるかを「言葉の定義」を利用して、理解することだと思います。

言葉の定義加減では、たいていのことは正しくなるんですね。

逆にいうと、言葉の定義を利用すれば、多くの場合、相手を貶めて議論に勝つことができるということです。

言葉の定義を厳密にすることや、矛盾をなくすことは、実際、不可能なことも多いからでしょう。

相手の見極め方

明らかに、悪意を感じる場合、議論はスルーしたほうがよいかと思う。ただ、その悪意を処理できるのなら、どこかに発散させるようにしてあげたほうが、良いかもしれません。

この悪意というのは、客観的なものでなくて、主観で自身がそう思えば、悪意ありと判断すべきです。

また、言葉の定義が重要なのは確かなので、言葉の定義を聞く時は、自身はどう定義して、その定義でどう考えるかを示すべきなのかもしれません。

相手を安心させる、相手に自身の立ち位置を知らせるなどをすることにより、相手を理解しようというスタンスですというのを伝えるのです。

理解できるが、賛同はできない

(ある程度)理解できるが、賛同はできないというところでの収束で満足すべき場合が多いでしょう。

議論というのは、別に相手の論理を理解できなくてもできてしまうということで、ネットとかでは議論という名の「石のぶつけ合い」を、さも高尚なことのように行われるのです。

議論と説得・交渉は別だと思う

しかし、説得・交渉路線の場合のほうこそ、相手を理解する必要があるわけです・・・・。

相手が受け入れやすい論理で、説得や交渉を行うほうが成功率が高いわけですから。

目的が何であっても、相手を理解しない(理解するふりをしない)場合は、議論・説得・交渉は無意味に終わることが多いので、この基準でスルーするかどうかを考えても、日常生活やネットではほぼ問題ないかと思います。

有益な議論に必要なもの

・言葉の定義が妥当か
・反証可能かどうか
・比喩やたとえ話が不用意に使われていないか?

こういう感じのものがいろいろあるわけですが、
実際にそれを実践しても、日常生活やネットで、議論を有益にすることはほぼできません。

たとえ話による批判は、相手を陥れるのに便利である

たとえ話も、意外と相手を陥れるのに便利な側面がありますが、「理解しようとする人たち」にとっては、たとえ話や比喩は重要な要素だったりはします。



(厳密にいうと)間違っている

哲学とかに私は無知なので、読んでもどの程度間違っているのかさえ理解できません(頭悪い)。

ただ、学問的には別だけど、世の中的にはそれで十分なことが多いんですね。

(専門家からみると)厳密にいうと間違っているんだけどというのは、日常的に溢れてたりするんだけど、実際には厳密に正しく伝える人たちよりも、ある程度間違ったことを言う人のほうが一般受けが良いんですね。

それは、わかりやすい、理解しやすいという部分もあろうかと思います。

ネットで見かける、なんちゃって専門家?なんて、結構間違ったことを言ってたりするわけですが、なぜかYニュースに寄稿?してたりTVに出てたりしますけどね。金儲けの仕方がうまいといえばそれまでですが、「相手が理解する」という観点でも優位だからだと思います。

あなたとは、(これ以上)議論したくない、話したくない

ここで、逃げるのか?とか言い出す人は、「コミュニケーション」「議論」というものを誤解してる気がします。

あと、周りの第三者の人たちが「正しいか、間違ってるか」を判断するでしょうというスタンスの人も、「コミュニケーション」というものを誤解してる気がします。

そういう傾向の人とは、価値観が近くない限りは、対話?しても無益で、気持ち悪い後味がのこる傾向があるかと思います。


議論にしても、コミュニケーションにしても、相手が存在して成り立つわけで、その相手をないがしろにしても大丈夫だと考えるのは、別に相手がいなくても大丈夫なことが多いので、議論でもコミュニケーションでもなくて、単なる主張なわけです。

主張なので、第三者の評価とかが逆に重要な要素に感じるのだと思います。


その他

「定義すること」と「定義した言葉でコミュニケーションすること」は区別しよう - 発声練習

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