「日本死ね」という表現に潜むメンタリティ

  • 投稿 : 2016-04-02
「日本死ね」という言葉の批判は、保守?(現状維持・現状容認)派に有利な論理になるので、本当に正しいのかなぁと思うところもあるけど、同時にやっぱり微妙かなぁと思うところもある。

・反対するなら、代案だせ
・ルールをまもって、抗議(デモ?)しろ
・抗議は良いが、周りに迷惑かけるな

とかそういう論理となんら変わらないようにも思う。

そういう観点を差し引いても
・当事者意識の欠如
・ナショナリズム
みたいな要素はあると思うんですね。

当事者意識の欠如

私たち市民は、市民の言葉を大切にするがゆえに、私たちの市民が政府を作り上げる。つまり、作為の契機をもっている。だから、変革が可能な日本という政体に向けて「死ね」と言うのではなく、変革への責務を持たなければならないはずである。
「日本死ね」と言うべきだっただろうか?: 極東ブログ

・日本(政府)
・個人・市民(私)

「お上」意識みたいなものなっじゃないかなぁと思うんですね。
「お上」が悪いから、「お上」死ねみたいな

ナショナリズム

おそらく日本人なら「日本死ね」と言ってよいという暗黙の前提があるのではないだろうか。だとすればそこで疑問が続く、日本人なら「日本死ね」と言ってよいのだろうか? あるいは、日本人なら「日本死ね」と言えるという特権のような意識があるとすれば、それは何に由来するのだろう? その特権を支える正義はなんなのだろう? おそらくなんらかのナショナリズムではあるだろう。


こうも思った。「日本人死ね」なら誰が言ってもヘイトスピーチになるかもしれないが、「日本死ね」であって「日本人死ね」ではないから、だから、よいのではないか?という理屈ならどうだろうか。
「日本死ね」と言うべきだっただろうか?: 極東ブログ

民族が比率が違うアメリカとかだったら、アメリカ死ねとは言えない感じは確かにすると思う。

4文字に込められた思い

「日本死ね」と言うべきだっただろうか?: 極東ブログ

正しいこと言っている気はするが結局よくわからない。長いし。「日本死ね」は様々な感情ややりきれなさを4文字で概ね表現しきったセンスの勝利。少しお行儀が犠牲になっただけ

2016/04/02 18:02

>「日本死ね」は様々な感情ややりきれなさを4文字で概ね表現しきったセンスの勝利。

これが、共感を読んでいることは事実だと思う。

「やりきれなさ」という共感と、同時に、決意させるものがあり、表現としてはやっぱりすばらしいのかも。

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