・コメント欄を閉じて隠したいこと - 散るろぐ
・履歴書が手書きかデータかは「何を求めてるか」から議論しないと不毛 - かくいう私も青二才でね
この3つを流し読みして、もやもやとしたものが心の中に起こったんだけど、
たぶん、「僕は、こうする」以上のことを言っているところが、どうも釈然としないんだろうなぁと思います。
批判されて記事を消しても
コメント欄を閉じても
手書きで履歴書を書かなくても
個人の自由なんだから、「僕はそうする」で十分なんじゃないのかなぁと思うんですね。
でも、これが「正解だ」とかこれが「本来あるべき姿だ」みたいな部分が大きくなると、ちょっと話がおかしくなるんじゃないかなぁと思う。
表面上は、「僕は、こうする」とだけ書かれていても、実際にはそうでない場合も多々ある気はする。
正解のない世界というのが、普通
履歴書が手書きかデータかは「何を求めてるか」から議論しないと不毛 - かくいう私も青二才でねまず、「正解が有るはずだ」という発想が学生の甘え。学生は文科省指導要領が設定する正解を追い求める事しかやった事ないからそうなってしまうのは仕方ないが、社会は「価値を生めたら正解」なので正解は無数にある
2015/10/24 11:08
そういう部分はあるとは思う。
履歴書が手書きかデータかは「何を求めてるか」から議論しないと不毛 - かくいう私も青二才でね正解はない世界。就活を受験のアナロジーで臨むと疲弊するよ。
2015/10/24 10:52
疲弊というのは、この手の話にはありがちだとは思う。
「僕は、こうする」以上のものを求める行為
・その選択・決断に自信がなくて、よりどころがほしい・他人にも同じように行動してほしい
・僕だけ損するのは嫌だ
結局、形を変えた「甘え」なのかもしれないなぁと思う。
「僕は、こうする」というのは、同時に、その選択・決断でおこった結果は自身で受け止めるという部分が同時にあるわけです。
スポンサーリンク
コメントを残す