悪意には善意をぶつけるべきで、善意に解釈するのはストレスの元

天然ボケには悪意が通用しにくいって言う原理です。

人の悪口を言うのも良くないと昔から思っていたから、嫌なことがあっても「でも相手はこういうつもりだったかも」と、なるべく善意に解釈するようにしてきた。
でも善意に解釈しても結局モヤモヤは晴れないし、相手が善意と仮定すると文句を言うこともできず、自分が悪かったのかと思って余計ストレスになる。
最近では「悪意があればやり返せるけど善意だとやり返せないから悪意の方がマシ、善人はみんな死ね」みたいに考え始めている。
我ながらこれは本末転倒だと思う。今まで気をつけてきたこと、無駄どころかやらない方が良かったのかな。
善意に解釈するの疲れた


たぶん、原理原則をきめて、その通りに行動しようとするのがよろしくないんじゃないかなぁと思う。
あと、なんでも自分の中で閉じてしまうのもよろしくないのだと思うんですね。

善意に解釈したら、その善意の解釈を表にだして表現すべきなんですよ。
そんなひどいこと言ってはダメだよ、こういう可能性もあるんだからとか。

また本人に直接ぶつけてもいいわけです。

ただ、そうできるかどうかは、性格(キャラクター)によるかと思う。
本当に善意に解釈できないのに、善意に解釈したようにいえば、単なる嫌味になるのでね。

自己完結して、内部に閉じる人は、ストレスがたまりやすい

悪意でも善意でも、なんでも内部で閉じて、自己完結してしまう人は、ストレスがたまりやすいと思う。

嫌なことがあったら、嫌だというのを表現することは大事だと思う。
嬉しいことがあれば、それを表現するのと同じぐらい大事なことだと思う。

感謝の気持ちは伝えた方がよいのとともに、不快感も可能な限り表現したほうがいい場合もあるでしょう。
顔を少ししかめる程度でも十分なんですしね。

嫌なことがあった時に、相手が悪いとか、相手が悪意あると思って表に出すとよろしくないってだけで
単に、表の出し方だと思うけどね。

善意に解釈しなくても、悪意に鈍感になるだけでも・・・

人間なんので、その程度の悪意はあっても仕方がないかなぁ程度に思えるのならそう思えれば、善意に解釈する必要はあまりなく。

2度までは許そうとかそういう閾値を設ける方法もある

相手には悪意はないはずだと思っていても、何回も似たことがあると、本当に悪意がないとは人間思えないものですしね。

あと、悪意なければいいってもんじゃないという部分も多々あるとは思う。

保留、分からないという分類

善意に解釈するの疲れた

「わからない」事は「わからない」で良いかと思います。わからないから善意側で考えると辛いのは仕方ないですし。でもわからないを悪意に取るのは話が悪化するだけだとも思います。

2015/08/04 18:33

たぶん、悪意を出来るだけ感じないようにするという路線ですね。

周りの人が何と言おうと、あの人には悪意がある

逆にそういう場合もあるとおもうので、最後は自身がしっかり自分を信じてあげないと、心が不安定になりストレスがたまると思います。

だいたい、悪意って直接向いている人たちには敏感に感じるけど、そうでない人たちにはわからないものだと思います。差別とかと似てると思う。

悪意を感じることに、うしろめたさを感じるのはダメ

人のことを悪く思うなんて、ダメだなぁとかそういう風に、後ろめたく感じると、自身がなにか悪いことをしているような感覚になり、ストレスの原因になるかとは思います。

あまり一般化したらダメなんですよ。

・このコメントには悪意がある
・この人の私に対する発言には悪意がある

なのに、いつのまにか一般化されてなんか違うものに誘導させるような論理と似たようなもの。

悪意の範囲を限定して小さなものにすれば、それは善意的に解釈しているんじゃないかなぁと思う。

逆に人を陥れる場合は、限定された悪意をさも一般的な悪意かのように演出すればよい。

たんに、あなたが嫌いだと言っているのに、なぜか「あなた」のもつ属性のものが嫌いだという風に誘導していくんですよ。
学歴、性別、思想とかいろいろ。

相手の悪意を否定するために、自身が悪かったというロジックは、ストレスの元

相手の悪意を否定するのには、だれも悪くなかったのではないか?とかそういうロジックを採用した方がよいと思う。

「自身が悪かった」とか「自身も悪かった」というのは、あまり多用すべきじゃないとは思う。

別に自身が悪くなくても、今度からはこういう風に行動しようとか言う風に考えることは可能なので、反省とか悪いとかそんなのなくても、行動の方向性は変えていくことは可能だとは思う。

「悪意」を「嫌いだ」という感情だと認識する

悪意ないっていってるけど、どう見ても好意的ではないという場合があれば、たぶん悪意はあって嫌いなだけなんだなぁと解釈するもの一つの方法かなぁと思う。

論理や弁明で、悪意を否定することはできても、嫌いだという感情はなかなか否定できない傾向にあると思うので、どうしても悪意という存在を感じ取ってしまう場合もあろうとは思う。

文章上は「批判」でも、その原動力が「嫌い」だったら、もう悪意と区別つかない人たちもいるとおもうし、僕はそれは悪意だと思う。

誹謗中傷じゃなくて、批判ですといっても、なんかそこに「愛」が感じられないものを批判とか助言とかに受け止められないと思うんですな。

「愛」を「優しさ」とかに置き換えてもいいけど。批判でも、言い方や言い回しにその部分がでてくるとは思う。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスは公開されません。
また、コメント欄には、必ず日本語を含めてください(スパム対策)。