「何のために」でなくて、「どうしたいのか?」と考えるほうが幸せになれると思うよ

人は何のために生きているのか。 - 自省log
生きる意味が圧倒的にわからない理由のメモ


このパターンはいろいろな派生があります

・人は何のために勉強するのか
・人は何のために働くのか

そういうのですね。

多くの場合、「何のために」にとか考え出す状況下では、そのことを考えてもなにもよいことが起こりません。まあ、現状、何かに悩んでいるんだなというのが認識できる程度です。

個人的には、考えること自体があまり意味ないとおもうけど、そういうと批判されそうなので、「どうしたいのか?」と考えるほうが幸せになれると言い換えておきます。


実際、どうしたいのか?と考えるほうが、次の行動を決めやすいですし、結果として、「何のために」という答えらしきものがでてくるかと思います。


人は何のために勉強するのか

学歴に意味があるので、勉強したほうが、ほかの努力をするよりも効率的だから

小学校では、良い中学に入るために勉強をし
中学校では、良い高校に入るために勉強し
高校では、良い大学に入るために勉強する

これで問題ないわけです。

その後、大学では、良い企業に入るために勉強するとおもうと、失敗することは多いかと思います。

ここで、「良い」ってなんなの?とか言い出す場合は、勉強してもたいして「良い」ところに入れないことが分かっている場合がほとんどなので、そういう禅問答みたいなことはやめて、もっと勉強するか、ほどほどであきらめるかするほうが、ずーっと健全な気もします。

人は何のために働くのか

生活するため、金を稼ぐために、働く。
そもそも、生活や金以外で行動する場合は、「働く」という表現を使う必要がないんですね。

それは、働くでなくて、活動するとかそういう言葉でも良いわけです。

何のために働くのか?という意味合いが、何のためなら働けるのか?という意味合いのこともあります。

やりがいがあれば、働けますというのなら、「やりがい」があれば、「妥協して」働けるという意味合いかもしれません。

要は、妥協できる理由がなければ、働きたくないというのが、本音なのかも。

「何のために」に考えるときは、幸せな時を選んだほうがよい

でも、多くの人は、幸せな時は、「何のために」と考えないんですね。そうです、考える必要がないから、考えないのです。

「どうしたいのか?」と考える

何のためにと考えるときに

・なるべく勉強したくないな
・なるべく働きたくないな

という本音部分をクローズアップして、それから「どうするとよいだろう」と考えるほうが、考えやすい気がします。

人間は条件を付けると、理不尽なことに耐えやすい構造にもなっています。

1年は働こうとか、3か月は勉強してみようとか、そういう思考になるわけです。


考えないというのも一つの解決策

考えても、答えが出ない、現実がかわらないという状況下で、考え続けても、同じところをくるくる回るような思考にしかならないわけです。この手の問題には、ブレイクスルーみたいなものが必要なんだけど、そういうのは、思考が無限ループしてるところからは発生しにくいので・・・。

考えても無駄なことは、考えるのを保留にするだけでも、精神的なストレスが軽減される傾向にあります。

解決策を考えることと、「どうしたいのか?」と考えるのは別

愚痴を言っているだけでも、ストレス軽減できて、また無意味な?作業ができるのなら、それはそれでOkだということ。

悩みや愚痴をいうだけで、救われるということも多々あるわけです。

ここで、それを解決するのにはこうすべきとかそういう発想になる必要はないんです。

「何のために」ブログかくの?

・承認要求
・金儲け
・暇つぶし

いろいろあると思うけど、
結果としてこうだという話と、何のためにはまた別の話かもとは思います。

何も考えずに、その場その場でなんなく行動するのも、そんなに悪くないかなと思うわけですが、どうでしょうか?

発想は逆で、なんか最近PV増えてきたから、広告貼ると儲かるかもとは言う具合。

ヘタに目的(何のために)をもつと、行動が制限されて、息苦しくなる気がします。

これは、「生きる」という観点でも同じかなと思うわけです。


・好きなことを仕事にした
・結果として、好きなことが仕事になっていた

この2つは大きく違うわけだけど、
多くの場合、後者なのに、前者のように話を作って、広める人たちも多いので注意したほうがよいかと思う。

最初から強い意思をもって行動するのに魅力を感じる人が多いのと、そういう話が好きな人が多いだけで、実際にはそっちのほうが少ないと思います。まあ、少ないからこそ、憧れを抱くのだとは思います。

もっとひどいのは、

・仕事をしているうちに、好きになった

という場合でも、なぜか、初めから好きだったという風にしてしまうこともあります。


視点を変えるほうが、実際の答えになる場合が、人生では多い

 障害児が生まれたご家庭では、大きなショックを受け、時には家族がいがみ合い、ばらばらになることもあります。しかし、その危機を乗り越えたご家族の多くは、異口同音に「この子は私たちの宝だ」と語ります。

この子のおかげで、自分は人生を学んだ。温かい家族になれた。この子がいなければ、今の自分たちはなかったと。

そう、まるで何かの目的をもって、その子が自分たちにプレゼントされたような気持ちです。

(もちろん、不安や心配が何もなくなったわけではありませんし、困難が消えたわけではありません。でも、子供のため、家族のために、より良い方法を考え、実践していけるようにるのです。)

原因探しや犯人探しを止めて、現実を受け入れたとき、心は平安になります。そして、さらにその困難に意味を見いだしたとき、私たちの心は、もっと前へ、前へと、進んでいくでしょう。
「なぜ」ではなく「何のために」、悩みの解決(心理学総合案内こころの散歩道)


「何のために、生きるのか?」という問いが

・原因探し
・犯人探し

の方向だと、息詰まることが多いかと思います。

ここで、「どうしたいのか?」という風にちょっと視点を変えていくと、答えらしきものに近づくこともあろうかと思います。


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