誰の心にも「信仰心」はある

科学主義(科学信仰)について

「信仰」という表現は、転じて、何らかの対象を絶対のものと信じて疑わない状態のことを指すようにもなっている。[13]例えば以下のようなものごとについて用いられる。
科学(科学への信仰は「科学信仰」「科学崇拝」あるいは「科学主義」などの呼称で呼ばれている。)
医療(医療への信仰は「医療信仰」の呼称が一般的。)
学歴(学歴への信仰は「学歴信仰」や「学歴崇拝」と呼ばれている。→ 学歴信仰が参照可 )
信仰 - Wikipedia

フリードリッヒ・ハイエクやカール・ポパーなどが、多くの科学者が根底に持つと彼らが考えた態度を指すために用いた。彼らは次のような二つの異なる批判的な意味でそれを用いる傾向があった。
科学を当てはめるべきではないような文脈において科学的な権威を用いていること、を明示するため。
自然科学の手法、自然科学で認められたカテゴリーや概念が、哲学など他の探求分野でも唯一の適切な要素であるという信念(思い込み)。
グレゴリー・ピーターソン(en:Gregory R. Peterson)は現代の学者がどのような意味で科学主義という言葉に言及しているのかを概説し、二つの大きな用法を特定した[2]。
科学主義 - Wikipedia

日本人に多いのが、科学主義(科学信仰)ではないかと思う。科学は信仰の対象でないというのは詭弁で、その文意を理解しようとしない人たちであると思ってよい。思考形態や考え方の態度を示しているのは明白なんだから。

端的にいうと、広義の意味合いで「信仰心」があるというべき事態だと思う。

信仰というのは不思議なもので、その渦中にある人たちには、それが信仰なのかそうでないのかが区別つかないという事態である。

つい最近?でも、日本では、政治的判断が必要な要素に、科学が、「科学主義」的に利用されていたような気がします。

商売人の信仰、十日えびす

 豊臣時代の頃になりますと庶民のえびす様への信仰はより厚くなり、また豊臣秀頼は片桐且元に社殿造営の普請奉行を命じています。またこの頃より市街が発達し、大阪町人の活躍が始まり、江戸期になると大阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮戎神社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになりました。十日戎の行事もこの頃から賑わいをみせ、延宝三年(1675)の現存する最も古い大阪案内の図「葦分舟」にも十日戎の状景が描かれています。
今宮戎神社ホームページ

福笹であまりケチケチしたことはしない。まあ、福笹で領主書を切ってもらう人はいるけど、使うお金をケチらない。

ここで、福笹に10万もかけることは馬鹿だとか、そんなことをして問題は解決されるのか?とかそういう話は、表立ってはだれもしない。裏でもだれもしないかもしれないけど・・・。

「信じない」という信仰

神に頼る者の問題をなんら解決しない。
それどころか、救いを求めてすがりつく者から金を巻き上げてゆく。
神へと祈る者が勝手に受け取る精神的安定と引き換えに、対価を要求する。
繰り返すが、宗教は人の作った組織だ。
その中で神を信じ続ける事が、あんたにできるだろうか?
既に、宗教を冷静に客観視して「みんなで祈るのもいいものだ」とか良かったところ探しをしており、そのことを増田に書き込んで整理しようとしているあんたに、入信して神を信じ続ける事が果たしてできるのだろうか?
悪い事は言わない。
手段が目的にすりかわってしまう前に、信仰を持とうとするのだけはやめておけ。
anond.hatelabo.jp/20140217175047

問題を解決する必要はなくて、ストレスが下がるだけで、生きる快適度が上がることもあるかとは思う。
愚痴を言うことが目的ではないのに、飲み会が愚痴大会になっている現状をみて、そういうのが受け入れられない人は、愚痴をいっても何も解決しない、手段と目的がすり替わってしまっているという感じの話かもしれません。

さすがに、アルコール依存症(アル中)になれば話は違って、この場合は、手段と目的が完全に入れ替わってしまっていると考えることができます。

で、アルコール依存症(アル中)になるのは、飲みすぎとか飲み方にあまり依存することなく発症することも分かっていたかと思います。つまり、誰もが、アルコール依存症(アル中)になる危険性があるわけです。

でも、飲酒は救いにならないとか言い出す人たちは、数少ないわけです。たぶん、危険性をあまりわかっていないからかもしれません。

また現実は、アルコール依存症(アル中)にならない人が大半だということです。

大半だと肯定されるという意味でなくて、大半で当事者だと問題としたくない人が多いということです。

レッテルをはって、単純化する思考から脱却しましょう


宗教は、詐欺的行為だ。
ただし、昔からの既存宗教や多くの人が信じている宗教は別。
カルト的なものだけが問題

こういう言い回しが必要なのは、実は、レッテルを張って単純化してしまうからなんですね。

実際には、「宗教は、詐欺的行為」なのかもしれません。ここでも、「詐欺」というレッテルがあります。

嘘をつくと、嘘が含まれると、詐欺なのか?というと、現実世界ではちょっとちがいますよね。


「xxxx」だというレッテルを貼る行為は、決めつけ行為なんですね。
これを、思考だと考えないほうがよいです。どちらかというと整理であり、思考ではないということでしょう。


誰の心にも「信仰心」はある

そう思ったほうが、そう思わないよりも良いのでは?と思う。

「低俗だ」「品性がない」「マナー違反」とかで、他人を批判?する人をみてると、強く何かを信じて疑わないからこそ、できるのかな?と思わなくはないので。

「低俗だ」「品性がない」「マナー違反」など、強く言ってしまうと誰も反論しにくいのを利用する人たち

まあ、生きるということも、無意識に、明日も死なないということを信じて疑わないからこそ、現状の日常が過ごせるのだと思う。

・・・

「自分は死んだらどうなるんだろうか、何も意識が無いところから突然生まれて、今生きている。そして自分は何十年も経ったら間違いなく死ぬ。もしかしたらそれより早く突然死ぬかもしれない。でも死んだ後俺はどうなる?意識が無くなって、そして、どうなる?その後に何が起こる?何も起こらないまま、何百年も何億年も過ぎていくのか?その後それが終わったらどうなる?そもそも終わりはあるのか?自分が生まれる前、自分はどこにいた?意識はどこにあった?」と、高校1年生のようなことを考え始めた。
その時、自分にはそれを解決して、1つの仮説を持ち、安心を得るための手段が無い事に気がついた。宗教である。
無宗教な自分が辛い


NHKスペシャル|臨死体験立花隆 思索ドキュメント死ぬとき心はどうなるのか
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宗教にかかわらず、信じたいものを信じたらいんじゃないかなぁと思う。
宗教を信じる素養のない人は、宗教にすがろうとしても、自身の思考との相性が悪いので無理でしょう。

某価学会や、某福の科学とかはわからなくもないが、ヘタすると普通のカトリックや仏教でも白い目で見られそうだ。
俺はどうしたらいいんでしょう。
無宗教な自分が辛い


科学か哲学で、それらしいものを探せばいいんじゃないかなぁと思う。

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