差別の区別は、大抵は「差別」であることが多い

そう思ってたほうが、他人に優しくできるんじゃないかなぁとは思うけどね。
たぶん、それは区別ですみたいな話になる場合は、たいてい「差別」紛いだよ。

あと、差別される側もちょっとおかしくて、その差別(区別)は私たちの差別とは別物だとか言う論理を平気で展開できるところからみて、この問題は実際には根が深いと思うけどね。特に、差別されることに対する何らかのものが、アイデンティティにつながってる場合は、特にその傾向があると思う。

たとえば、弱者の男性と、弱者?の女性は根本的に違うという論理なんかはそうなんじゃないかなぁと思う。あとは、性的指向と性的嗜好とかそういう系統も似たようなものでは?



差別の区別は、大抵は「差別」であることが多いと思う。
ただ区別しないと、差別を辞めさせるのが難しいということもあり、啓蒙活動と一緒に区別らしく物が行われると思う。

で、啓蒙活動で一部の差別はマシになるんだけど、救われない差別がでてくるということも多いと思う。でもって、なぜか「救われない差別」が目の前に存在しても、啓蒙してきた人たちでさえも、それは差別ではないっていう論理で切り捨てていくんですね。

だって、いままでさせてきた論理が崩壊すると、せっかく得られたものが崩壊するかもしれないとかそういうのもあるのかもしれないなぁと思う。

しかし,差別と区別を分ける本質的な線引きは存在しない。なぜなら,何らかの発言や措置をどう捉えるかは個人によって大きく異なるからである。



ここで重要なのは,ある発言を「差別」と受け取るか,「区別」と受け取るかはそれを言われた本人にしか決定できない,ということにある。


「ヘイトスピーチを行う人は差別的」だからと言ってそれを「差別」することはできなくなる.ここにパラドックスが生じる。


これらから導かれる1つの思想は,「他者に危害を加えない限りにおいて,あらゆる思想や言動は許されるべきである」という自由主義的発想である。
この思想に従えば,「他者に危害を加えない限り」ヘイトスピーチも,反ヘイトスピーチも共に許容されるべきである。


そもそも,なぜ議論が必要かというと,人間の発想・思想は不完全であり真理ではない,という理由が挙げられる。
従って,あらゆる批判を相互に許し,良いところは伸ばし,悪いところは修正を図ることで真理に近づくことができる,というのが
自由主義の考え方である。しかし,自由な批判を行うためには論理的な思考能力,互いの尊重,感情的発言の極限までの抑制などが
必要となる。それらの能力はどこでどのように身に付けるべきなのか。


また,この自由主義が「多数派」にもしなったとき,教育によりその体制を維持するというのは自由主義による「圧政」ではないのか?
差別の区別は差別なのか?


僕個人としては、
感性(感情)でモノを考える人のほうが柔軟な気はして
理性(論理)でモノを考える人のほうが狂気的な気がするんですね。

なぜそうおもうかといえば、
感情は、なにかを正当化しにくいけど
論理は、なにかを正当化しやすいってことです。

でもって、一度正当化できる論理を手に入れてしまうと、疑うことをせずに突き進んでしまう可能性があるような。

・正しさの適用範囲の勘違い
・正しさの内容の勘違い

わざとやってる場合もあると思うけど、科学的に正しいから、政治的にも正しいとかそういう風に、適用範囲とか内容錯誤とかが普通に行われてると思う。
これ、理性的、理知的とか言う人々がやってることですよね。

表面的には、理性的・理知的だけど、かなり感性的な雰囲気にみうられるんだけどなぁと思う。

客観性があるか、科学的であるかに頼る危険性

差別の区別は差別なのか?

「個人の考えや文化による」というのがどうにも引っかかる。非科学的で非合理的なものが差別=悪という定義でダメなん?例えば人種で能力が著しく異なることが科学的に真であれば誰が嫌でも不快でも区別すべき。

2017/04/14 19:15

たとえば、人種間でも男女間でも、科学的に証明されたら、差別しては良いのか?という話があると思う。
(僕の)倫理的な観点では、ダメだと思うんだけど、世の中はどっちなのか?っていう話はあると思う。

たぶん、差別の概念を関揚げるとダメなのでは? 能力は別にして、チャンス(機械)は与えるべきだというのもあるし・・。

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