「自己肯定感が低い」不幸を脱する5つの視点

「自己肯定感が低い」と自覚する人は、自己愛が強いんじゃないかなぁ
「自己肯定感が低く」「自己愛が強い」人は、我が強いんじゃないかなぁ
「自己肯定感が低く」「自己愛が強く」「我が強い」人は、コミニュケーションに問題あるんじゃないかなぁ
「コミニュケーションに問題ある」と生きづらいのは、確実のような・・。

と思います。事例は1つあって、私です。

1.パラメータを増やして、調整できるかどうかを考えてみる

自己肯定感だけなんとかしようとすると難しいけど、そこに「自己愛の強さ」というパラメータを入れてみるとでどうでしょうか?みたいな視点も重要だと思います。

もしかすると、自己愛の強さをすこし抑えたら、自動的に自己肯定感があがる可能性だってあります。つまり、自己肯定感が低いのが原因でなくて、自己愛の強すぎるのが問題だったかもしれないっていう話ですね。

「自己肯定感が低い」というのは気持ちですから、自己愛の強くないとそうならないとは思います。

たまに、自己愛が低く、自己肯定感が低い人もいますけど、そういう人は、「自己肯定感が低い」って自覚できないことが多いと思います。他人に指摘されても、そうか?ともなかなか思えないと思います。

2.認知のゆがみを修正する

・全か無かの思考
・行き過ぎた一般化
・心のフィルター
・マイナス思考
・論理の飛躍
・拡大解釈、過小解釈
・感情の理由づけ
・~すべき思考
・レッテル貼り
・誤った自己責任化(個人化)
認知の歪み - Wikipedia


やり方はそんなに難しくなくて、「認知の歪み」系の論理を利用します。歪みがあることにして、補正する方法論としてつかえます。

実際には、認知の歪みがあるかどうかはあまり意味がありません。認知のゆがみがなくて、都合の良いように「歪め」るためにもつかえるということです。

3.公平・公正というものに依存してないか?!

公正世界仮説(こうせいせかいかせつ、just-world hypothesis)または公正世界誤謬(こうせいせかいごびゅう、just-world fallacy)とは、この世界は人間の行いに対して公正な結果が返ってくる公正世界(just-world)である、と考える認知バイアス、もしくは仮説である。
公正世界仮説 - Wikipedia


公正世界においては 今まで起こった全ての出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であり、そして今後もそうであるだろうことが期待される。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などの存在を暗示する。公正世界信念の保持者は、「こんなことをすれば罰が当たる」「正義は勝つ」など公正世界仮説に基づいて未来が予測できる、あるいは「努力すれば(自分は)報われる」「信じる者(自分)は救われる」など未来を自らコントロールできると考え、未来に対してポジティブなイメージを持つ。一方、公正世界信念の保持者が「自らの公正世界信念に反して、一見何の罪もない人々が苦しむ」という不合理な現実に出会った場合、「現実は非情である」とは考えず、自らの公正世界信念に即して現実を合理的に解釈して「実は犠牲者本人に何らかの苦しむだけの理由があるのだ」という結論に達する非形式的誤謬をおこし、「暴漢に襲われたのは夜中に出歩いていた自分が悪い」「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災よりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する犠牲者非難をしがちである。
公正世界仮説 - Wikipedia


現状が幸せな人たちには、こういう考え方は、自己や現状を肯定しやすいので悪くないと思いますが、

現状そうでない人には、より不幸を感じさせる結果になると思います。

たんなる信仰のたぐいなので、信じることをやめれればよいかと思います。

4.例外を作る

「正しいことを幸せだと思っている」真面目さと、生きづらさの正体。

私も昔はこんな感じだった。今は、ルールを破って良い例外規定をたくさん用意して、だいぶ柔軟(当社比)に生きられるようになった。けれど、結局、例外規定と照らし合わせる根元の真面目さと生き辛さは変わらず。

2016/12/04 08:16

自分だけが別とかそういうロジックを取り入れる。身勝手さと紙一重だけど、まあ、身勝手なほうが不幸から脱することもできたりすることも多いのも事実だと思う。

5.身勝手さが自身にないかを考えてみる

逆に、身勝手さを検証してみるという方法論ですね。

身勝手でない人は、この世にいないと思います。だから身勝手なことが悪いことでもないとは思います。
その点も踏まえて、自身の中に身勝手な部分がないか?っていう部分を良く検証してみるというのも一つの方法だと覆います。

・人間関係に関しての身勝手さ
・自身の評価に対しての身勝手さ

あらゆるものに、身勝手さをつけて、考えてみれば、なにか解決の糸口になるものがみえてくるのではないか?と思います。
この世の中、身勝手でなくても、自身の言動を変更して周りに合わせるほうが、幸福になりやすいと思います。ただ、周りに合わせるのと、周りに利用される・利用するとは少し意味合いが違うとは思います。

えぇ?さっきといってること逆じゃないか?といえばそうなります。

身勝手さが周りに受け入れられれば幸せになりやすいし、身勝手さを周りから拒否されおまけに非難されると不幸になりやすいでしょう

という原則があると思います。
でもって、身勝手さをすべて自己から排除すれば、幸せになれるか?といえば、たぶん多くの場合は幸せになれないと思います。

受け入れられるというのは、実際には権力や金の力で結果としてそうなってる場合も同じで、それでもそれなりに幸せなはずです。
そんな幸せは偽物だとか、そんなのは幸せでないというキレイごともありますが・・・。

ホームレスの幸せについて

以前母と話したときに、私が「ホームレスを見ると悲しくなる」と言ったら、「案外あの人たちは幸せなのよ。縛られることもなく、気楽に生きていけるから」と言われ、そうかと思った。自分が思っているよりも、他人は不幸せなんかじゃない。本当に心の底から辛い人なんてそうそういないのだ。

「正しさを基準に判断し、他人を不幸と決めつける人」に言いたい。

正しいことが、必ずしも幸せではないということ。正しくない人が全員不幸なんかじゃないということ。自分の「幸せである条件、または物差し」――たとえば死に物狂いで頑張ることとか――から外れている人が不幸だなんて、そんなことは絶対にない。

私たちは正しくなくていい。正しく幸せになろうとなんかしなくていい。

私たちには、「不真面目に幸せになる権利」があるのだから。
「正しいことを幸せだと思っている」真面目さと、生きづらさの正体。


「サラリーマン(社畜)をみると悲しくなる」といったら、
「案外あの人たちは幸せなのよ。給料安いといいながら、気楽に生きていけるから」といわれた
そうか、自分が思っているよりも、サラリーマン(社畜)は不幸じゃない。

本当に心の底から辛い人なんて、そうそういないよね。

とかでもかけるけど・・。

・「正しいことを幸せだと思っている」真面目さ

って、一般論に昇華して、勝手に納得する身勝手さなんだと思う。でもって、生きづらさの正体は、「身勝手さ」を周りに受け入れられないことだと思う。

「正しさを幸せだと思っている」から方向を少し変えただけで、信じる対象を変更してるだけのような。何も本質変ってない気が・・・。

「正しさ」という身勝手さを、周りに受け入れられたら、幸せを感じると思うけど?!
ネットをはじめ、世の中の正論をたたきつける人たちって、そういう感じですよね。

正論だから、身勝手でないと思ってるだけ、身勝手だと認知できないだけ。


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