世の中が「正義」や「正論」「大義」に頼りすぎると、暴力的になる

「正義感で他人を攻撃するな」ということさえも、それが「正義」と「正論」になると、暴力的になると思う。正義感で他人を攻撃することが悪いのでなくて、実際には、世の中全体が「正義」や「正論」「大義」に頼りすぎなんじゃないかなぁと思う。

その結果、「勝てば官軍、負ければ賊軍」になってしまうわけです。

正義感で他人のことをアレコレいうことと、攻撃することを厳密に区別する方法がないかぎり、結局は方向性が違うだけで同じことを繰り返すわけです。つまり、一方が都合の悪いことを黙らせるのに使ってしまうということになるわけですね。

でもって、多様性がとかいいつつ、実際には「正義」と「正論」で多様性を奪っている結果にもなっていると思う。つまり、2択しかないとか、2宅のうち片方しか事実上選択を認めないとかは、別のところで問題があると思う。

本当に多様性が実現されていたら、そうそう簡単に「正義」や「正論」は形成しにくく、また形成されたとしても一定条件を満たす場合においてのみとかの限定条件が付くはずである。つまり、限定条件や適用範囲が明確でないものなんて、「正義」でも「正論」でもないかもしれないなと思う。

じゃぁ、どうすればよいの?

私にはわからないが、世の中が「正義」や「正論」「大義」に頼りすぎている現状を何とかするしかないとおもうし、それには多くの人の意識が変わらないとダメでしょう。

こういう構図って、過去においては「モラル」が相当したと思います。世の中が「モラル」に頼りすぎて形成されていたために、一部崩壊してしまったのと同じように・・・。

「科学」や「統計」の正しさ?とかでも同じだと思いますよ。その正しさをつかって、政治的なものを肯定するの使いだして頼りだしたら、崩壊してもおかしくないでしょう。だって、違う方面の正しさをラッピングして違う正しさを生み出してるだけですからね。

思うこと

ネットの世界では,みんな誰かを攻撃したくてたまらないみたいだ。
Twitterなんかを見てると特にそう感じる。
正義感で他人を攻撃するな


現実世界も同じなんじゃないの?
単に、価値観の違う者同士は無意識にでも離れるようにしてるからそう感じないだけで・・。

でもって、現実世界では、むやみに攻撃的になると生きづらいような仕組みになっているので、弱いものは黙っているだけで・・。そのことが良いことかどうかは別だとも思う。つまり弱者が黙っていることで成立している秩序にしか過ぎないから。

どんなに(自分にとって)正しい理由があっても人を攻撃していいわけない。
正しい=正解じゃないはずだ。
正義感で他人を攻撃するな


どんな理由があっても、人の発言を黙らせるのも問題あると思う。

まず失言しないようにするのには、何かを強く主張しなければよいのでは?と思うが・・。つまり何かを強く主張した結果、賛同者が多くなれば問題なくて、攻撃する人がいると周りを黙らせるとかいうのはおかしいと思うけどね。それそれだったら、失言をする当人も、初めから黙っておくべき。

・失言するから、黙っておけ
・批判は攻撃的になりがちだから、黙っておけ

賛同者が多い場合(多数派の支持があった場合)も、実際には、多数派の暴力であったり、狂気であったりしないのかなぁというのはあるけど?
発言者が攻撃されないけど、違う人たちがそれによって攻撃される可能性があり・・。

正しすぎることの、ダメさ

カタカナ語でなにかいろいろ人たちがいるけど、要約するとそういう感じなのではないかなぁと思う。

反論しにくいことをいいことに、なにかをゴリ押しする人たちがいるわけで、そういうのって非常に厄介なんですよね。

反論ができない、反論しにくいってことは、それは正論で正義だからなんじゃ?という論理も作れるけど、でも、正しすぎる行為とか行き過ぎた行為っていうのは、大抵は世の中の害になってることのほうが多いと思う。

クレーマーとかいうレッテルと同じでしょう?

分かりにくい行き過ぎというのは、何でもかんでも「クレーマー」というレッテルを貼って、排除してしまうとかそういうの。
分かりにくいし、反論しにくいので、害になりやすいと思う。

クレーマーが、差別主義者でも、ヘイトでもなんでも良いんだけど・・・。

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