被害者のことを考えれば!!、遺族の身になれば!!という風潮の危惧

別に、被害者、遺族だけでなくて
働くママとか、貧困で生活に困ってる人でも同じなんだけどね。

働くママの立場になれば見たいな感じで結局は同じ。

なぜ、そんなことが求められるのか。私の意図は単純である。市民と原理性と市民の具体性において、マスメディアを介して怒りの情感を醸成するものに危惧を抱くからだ。

一種の被害者正義に憑依する主体は、市民社会の言論の一種の自浄性として解体される傾向もあるべきだろう。
脱文脈化ということ: 極東ブログ


どうもこの10年くらい、遺族の代理人のつもりで発言する人だらけになっている。
鈴木沙彩さんが元恋人の池永チャールストーマスに殺害され、ハメ撮り画像を晒された事件でも、遺族の立場になって考えなくてはいけないらしい。
そうやって遺族の代理人というメンタリティーを持つ風潮は、本村洋とか池田小の遺族が作ったのだろうけど、俺にとってはどうでもいいことである。
池田小の件なら宅間守が悪いのだし、社会のせいにされても困る。



万引きから逃げている途中で鉄道に轢かれた少年の場合でも、店主への抗議などがいろいろとあったようで、閉店に追い込まれたわけである。
みなさんは遺族の代理人であるらしいので、なかなか難しい話である。
俺は遺族の代理人になるつもりなどないので、どこか知らない星で起きた事件くらいにしか考えられないが、みなさんはわれこそが代理人だと言い張っているわけである。

刑法は何でも死刑という世界ではないし、それなりの量刑が決まっているのだが、みなさんの民意が罪刑法定主義を逸脱させることがある。
本村洋の件でも、あれは普通なら死刑ではない。
みなさんが頑張った結果としての死刑なのです。
みなさんは本村洋と面識もないはずだし、彼が再婚していることも知らなかったはずだから、なぜそこまで感情移入できるのか不思議である。

「これがおまえの家族だったらどう思う」という仮定を強いられるわけだが、しかしそういう仮定が本当に必要なのか疑問である。
俺は遺族の代理人ではないので | ブログ運営のためのブログ運営



引用先の人たちが、何を主張しているのかは僕にははっきりとはわからないところがあるのだが、
しかし、遺族の代理人でもなく、被害者の代理人でもないのに、なぜその立場になることを強制させられるのか?っていう部分に、すこし危うさを僕は感じてます。

でもって、こう思うべきという感情も強制させられている感じに結果的になるわけです。

強制させられているのに、強制させられていることに無自覚な場合は、それは「共感」という感情にする変わるのではないか?と思う。

本当は、「共感」する要素なんてないのに、疑似的な「共感」が生まれてしまうわけです。

被害者や遺族がたとえば、死刑を望んでいるかどうかは不明であっても、死刑を望んでいることにもなりかねないのです。本当に、その立場で考えられているかどうかは不明でかつ、ステレオタイプ(決まりきったパターン)的に何かが構成されていくのです。

ステレオタイプ(決まりきったパターン)

ストーリをつくって、その通りであることが正しいとする危険性もあると思う。

あとから、検討の余地があることが出てきても、ストーリありきで結果を変えたくないので、解釈や大義をつくりかえるみたいなことも多々ありで・・。



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