オリンピックのエンブレムの問題における「知性主義」と「権威主義」について


東京オリンピックのエンブレムを巡っては、ベルギーのグラフィックデザイナー、オリビエ・ドビ氏が、2年前に作った劇場のロゴマークに極めて似ているとして、IOC=国際オリンピック委員会に対しエンブレムの使用差し止めを求める訴えを、今月、ベルギーの裁判所に起こしました。
これについて、東京大会の組織委員会は28日に会見を開き、アートディレクターの佐野研二郎さんが作ったエンブレムのデザインの原案を初めて公表しました。
原案では、赤い丸が右上ではなく右下にあり、より「T」の文字が分かりやすいデザインとなっています。このデザインの採用を決めてから国際商標を確認したところ、類似点のあるデザインがあったため、佐野さんが原案を2回修正し、最終的に発表されたエンブレムになったということです。
東京五輪のエンブレム デザインの原案公表 NHKニュース


自分たちが正しいとおもって、そうでない人たちを「反知性主義」というレッテルをはって処理してしまうのは、知性主義なのかというのはある

知性主義か反知性主義は、その考察過程にも着目すべきであって、結果だけをみて後付論で論理の正しさを評価するのは、知性主義じゃないでしょう。

知性主義とは、自身で自身で考えようとする態度(思想)であって
権威ある人、良識豊かな人たちがそういうから、きっとそうに違いないなんていう思想は、知性主義ではなくて、知性主義もどきでしょう。

なんとなく、反知性主義ではないようにみえるというだけで・・・。

知性主義は、その考察過程にあるわけですから、その考察の仕方が明らかに間違っていた時に、今までの論理を再検証しなければならないかと思います。

また、権威ある人のいうこと、良識豊かな人たちのいうことを、ただ鵜呑みにしてうけいれることが、知性主義なら、それはたんなり権威主義を言い換えただけにすぎないものになるでしょう。

知性主義にみえなくても、知性主義である場合がある

言語化や表現ができないというだけで、一見、反知性主義にみえたりするが、実際はそうでないこともある。

もし、言語化することやそれらしいことをいえることが知性主義なら、それは現状容認する人たちのほうが明らかに知性的なんですね。

下の部分のLの一部に見えるものは、何なのか?

ベルギーのグラフィックデザイナー、オリビエ・ドビ氏からの指摘で、僕をはじめ一部の人たちが、右下のものはなにかという素朴な疑問を持ったわけですが、擁護していた人たちはどういう論理でそれを説明していたか?ということなんですね。

原案から修正したから、パクリでない?!

これも心理的トリックであって、修正案してくれって頼んだ人でなくて、最終的に修正案を作った人がどういう意図でそのような修正をしたかにもよるわけですよね。

たしかに原案はパクリではない。したし出来上がったものは、パクリかどうかはまた別の話ですよね。

エンブレム(ゴロ)がカッコよく、カッコ悪く感じる理由

センスがあるとかないとかでなくて
そういうデザインのものをみなれていると、カッコよく?感じたりするというのはあると思う。

ここで、センスあるものを多く見た人は、センスが磨かれて良さがわかるようになるという論理もつくれるけど、

たんに世の中に出回っている流行りのデザインをおおくみていたら、これが今の流行でしょうとか、この良さがわからないとはという論理になるだけのような。

その路線だと、なせ良いのか?とかを説明することは難しいし、またカッコいいからといってオリジナリティあふれているかはわからないかとは思う。

お前の言ってることは、結果論であり、都合のいい材料にそれらしい論理をつけてるだけだ

まあ、その通りだと思いますよ。
でも、それは僕の立場でなくても、そういう可能性はあるのでは?と思う。

この論理がある限り、批判派や反対派は、擁護派に不利なんですね。
でもって、批判派や反対派の良識ある人たちは、声を上げにくいんですよね。だって、疑いのレベルで強く得るなにかを持ってないのですから。

でも擁護派は違います。権威を疑うのは普通はありえないことし、それが間違ってることはあまりないですから、強く何かをいっても問題がないわけです。(しかし、不利な事実が出てきたら話は変わってくるけど・・・)

都合のよい切り取りを行い、都合の悪いものは隠ぺいする態度

それは、知性主義か?なんですね。

反対派でも、デザインがかっこ悪いからとか売国的だとかそういう感じのことを言っている人たちも一部いるわけですが、その人たちが反対派のすべてではないのです。

でもそこだけを叩いて、でもって反対派はこういう人たちの集合だという位置づけをして、部分否定しながら全体まで排除してしまうという方法論をとるのは知性的か?なんですけどね。

もちろん、、それは逆の立場の人にもいえるとはおもうけど。

パクリでないし、盗作ではないとおもうけど・・・

この言葉には、
本当にそう思っている場合と
疑っているけど公言するわけにはいかないし、そういう発言をすることでバッシングにあうのは嫌だという場合とか
そういういろいろなケースがあると思うんですなぁ

知性主義というのは、冷静にその部分も読み取らないとダメなのでは?

このエンブレムは、カッコ悪いので、何とかしてやめさせたい

この論理でも、知性的かもしれないという可能性はあるかと思います。

知性的かどうかは、その理由に正当性があるかどうか?という部分にあるとおもうのですが、
なにが正当か?という部分は価値観に依存するので・・・。

文系は論理的でないという理系のように、決めつけてるだけなんじゃないの?という部分は気を付けないと、知性的だとはいえないかと思う。

知性的なんだけど、反感をかうとかいうのは、
本当は、周りが知性的でないのでなくて、知性的でない発言をしているのかもという可能性もあるってことですよね。


決定打がない限り、現状を容認しろ?!

ただブコメとかで「もう穢れてしまったんだから白紙撤回しかない」みたいなことを言ってる人がいるのが気持ち悪い。何時代に生きてるの?って感じ。ただただ頭悪そう。

「穢れた」と「俺が気に入らない」って何が違うの?



ロゴがいいかわるいかはともかく、佐野が法律違反で逮捕されるといったことがない限り撤回なんてしなくていい。
穢れたから白紙撤回とか言ってる人


「頭悪そう」と「穢れた」ってどの程度違う発言かですな。
どっちも、「俺が気に入らない」というのはあるわけで・・。

企業だったら、企業イメージ守るために、法律違反で逮捕される前でも「イメージが穢れる」とおもったら平気で切ると思うよ。だって、正義より、商売でしょう。

ただ、切るための大義があったほうがよいので大義を探し出して作り出すことが多いとは思う。まあ、大義は後付で作ればいいって話ですなぁ。

穢れたというのもある意味「大義」であるわけだけど、どれだけの人が納得できるか?だけで・・・。
法律違反で逮捕?されることがあっても、刑が確定するまでは、真実がはっきりするまではという論理だって作られる。

どこかの論文騒ぎでも、そんな感じなんじゃないの?

あと、オリンピックの服装問題(國母和宏)をみても、人間性?とかそういう部分が求めるのが、日本?のオリンピックでは?それがいいかどうかは、僕は知らないけど。


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