世の中の多くの人は、「正しい理解」よりも、「正しい選択」を重要視する

そのかわり、自分向けに書いてくれている文章であればそれが正しいと勘違いします。
2ちゃんまとめサイトのような記事の書き方を至高であると考えます。
内容の正しさを判断する知能など望むべくも有りません。
世の中にある文章のほとんどはあなたのためにかかれた文章ではない


正しく理解できたら、その選択はしないだろうという論理のもとに、
正しく理解できていないだとか、デマ、似非科学などに騙されているとかいう論理をくみたてて
もっともらしい批判をするんだけど、

単に、その選択は、許容できない、迷惑だというだけの話のことも多いと思う。

つまり「正しい理解」を求めているのでなくて、「正しい選択」を重要視しているのだと思います。
まあ、何が正しいか?という部分に、主観とか価値観が含まれるわけですが・・・。

逆にいうと、正しく理解出来てなくても、「正しい選択」をしている人たちは非難されない傾向にあります。
それは、迷惑でないからという理由だからでしょう。

つまり求めているのは、正しい理解でも、リテラシーでも、教養でもなんでもなくて、
その選択に賛同できる人であることを求めているだけだと思います。

内容の正しさを判断する能力

専門家と同等の能力ではないみたい。
無条件に専門家の意見を聞く能力でもないみたい。

たんに、世間一般ので言われている無難なことは、正しいことが多いというだけの経験則に過ぎないと思う。
内容の正しさを判断する能力なのに、なぜか結果が保守的になるのは、そういう経験則に近いものだからと思う。

みんなで赤信号をわたれば、安全だという思想と変わらないこともある。
実際、みんなで赤信号を渡ると、意外と安全です。

車は止まりますし、止まらない車があっても、数人が被害にあえば、車は止まります。
結果として、ほかの多くの人は安全ですぁ。

同じ赤信号でも、みんなで渡らないと、意外と危険です。

このロジックもあるために、保守的な思想が意外と正しさの基準になりがちです。

・多くの人が正しいと思っている
・多くの専門家が正しいと言っている
・過去の実績も正しいと言っている

目安になるのは事実。
それをなぜ疑うの?というのはまた別物だとも思う。

自分で考える能力と、理解力とは別物だとは思う

レポートや論文および、それに付随する資料を読むことができません。
自分が詳しくない分野については先生がかんで含めるように教えてくれないと理解できません。
そうやって丁寧に教えてくれない人を馬鹿にするので手の施しようがありません。
世の中にある文章のほとんどはあなたのためにかかれた文章ではない


正しく?読めて、理解できても、判断能力とは別だとは思う。

経営者でも、専門家が言っている内容は理解出来ないけど、
別の指標で、その専門家を信用すべきかどうかを判断している状況をみると、
本当に、理解することが必要なのかは別かなぁと思わなくはない。

これ話は初めに戻って、
その結論がでるのなら、本当に理解してるとは言い難いという論理が依然と成立して、
結局、受け入れる以外で、理解していると思ってもらえないとおもうけどねぇ。

知性や理解力があるのに、騙される人がいるのはなぜか?

相手は騙しのプロだから?
疑うことをしらないから?
欲深いから?

でも知性や理解力がある人は、知性や理解するプロなんじゃないの?
でも、騙しのプロにはかなわないのですかね?

それともまだ知性や理解力が足りな過ぎて、騙しのプロには対抗できないだけ?

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