常識は、社会適応する処世術(ツール)なので・・・

自分の中にある固定観念に気付いた時
どうしてこれが常識になっているのか、どうしてこれが多数派の意見になっているのか、そしてこの意見は今後も曲げること無く維持すべきものなのか。
それが気になるだけなんです。



私が嫌だなと思ったのは、なぜあーでもないこーでもないと考えを練っている人を、上から目線で否定してかかるのか、という事です。
それはまさに、侮蔑の眼差しでした。話を聞いても、鼻で笑いながら「だってそれが当たり前じゃん、常識じゃん。」としか答えてくれません。
常識を疑うこと


この問題の難しいところは、
「常識を疑って、自分の頭で考えたら、そんな態度にはならない」という思い込み(固定観念)があるところだと思う。

常識を疑って、自分の頭で考えても、結局同じ結論に至る人もいるわけで、何度考えても同じ答えになるので、常識であり当然であるという認識になる可能性もあるわけです。

まあ、態度が人間としてどう?ということもあるけど、この手の常識というのは、普通に生活している限りは疑いを持たずに信じることで、その効力を発揮するので、いちいち疑っていたりはできないという側面もあろうかと思う。

だって、いちいち、善悪の基準とかを疑いだしていたら、人には攻撃的にならないかもしれないけど、何も物事を決定することできないという状態になりかねないから。

常識が、ある意味、差別や偏見を生み出しているといえる

「常識=正しい」という構図は明確には存在しないから。

「常識=社会適応しやすい」みたいな構図のほうが、まだ成り立つと思う。

また「常識」という性質上、時代変化にすぐに対応するという面は難しいという点もある。「出生前検査と中絶」というのも以前はありえなかった選択ができるということで、そういうのは常識というツールを利用すると、保守的な考えになるのも仕方がない面があろうかと思う。

常識を疑う心が大事なのではなくて、人に対する思いやるの心が大事なんだと思う

常識を疑う事ってだめなこと?
常識を疑って考えこんでいる人を見下す何も考えていない人って、なんなの?
私が面倒くさい人なだけ?
常識を疑うこと


たぶん、常識に縛られて人を見下す態度をとるのが自身の美学では嫌だから、
常識を疑うようにしているだけのように見受けられる。

しかし、常識に縛られても、人を見下す態度をとらないことも十分可能なはずです。

この問題は、正しい判断?正しい知識?なら、結果として人を見下してもよいと考えるかにもよるかと思います。

常識に縛られて、間違った考え?で、人を見下すのはダメだけど
常識に縛ららずに、正しい考え?なら、人を見下してもいいか?というのをどう考えるかだと思います。

常識を否定する?ようなことをいうと、非難される傾向にはあるかと思う

社会適応というか、社会の構成員として邪魔にならないかどうかを見てる感じなので、そういう立場の人を怖い?許せない?と感じる人がいるのでしょう。

そういう意味でも、常識は社会適応ツールみたいなものだと思う。

常識を疑わずに、人を見下す人を、バカにしている

極論、そういう一面もあるということ。
価値観が違うもの同士が、理解しあえなくても、お互いを尊重?するのは意外と難しいということだと思う。

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